★書評/『ムンクを追え!』  

 1994年の冬季オリンピック、リレハンメル大会の開催初日に、オスロのノルウェー国立美術館で、名画の盗難事件があった。盗まれたのはムンクの、あまりにも有名な「叫び」であった。2人の男と一本の梯子。これだけで、1分もかからずに、時価86億円の絵画が持ち出され、消えた。

 本書は、この名画の行方を追跡し、回収するまでのドラマなのだが、描写の力点は、チャーリー・ヒルという、魅力的な人物に置かれている。「ムンク盗難」はむしろ、この人間の計りがたさ、奥の深さ、幅の広さをとことん追求するための、かっこうのステージの感がある。

 ヒルは、ロンドン警視庁の「美術特捜班」に所属する刑事である。これまでも、名画の盗み、贋作など、アートを巡る犯罪で、数々の功績を挙げてきた。「叫び」を奪い返す作戦は、なかでも一世一代の大仕事になる。

 イギリスで生まれたが、育ったのはアメリカ。イギリス風、アメリカ風、それにカナダ風にも、英語をそれぞれ完ぺきにしゃべれる。インテリと金持ちが簡単に兵役免除になるシステムに憤って、ヴェトナム戦争にも出かけていった。一時は学問を志したが、ロンドンで「もっとも物騒な地域」担当の警官として、犯罪者との付き合いをはじめる。

 尊大にも、慇懃にも、チープにも、優雅にも、自在に変身できるヒルが、やがて、人間心理が深く関わるアート・クライム担当になっていったのは、自然の成り行きだったにちがいない。

 読み進むうちに、ヒルのイメージがしっかりと立ち上がってきて、「ムンクを追え!」というよりも、むしろ「ヒルを追え!」ではないかとさえ思えてくる。この追跡はなかなかに快適である。というのは、おもしろいヤツじゃないかと、次第にヒルに対して親しみを抱くようになるからである。

 この刑事が得意とする囮捜査についての叙述が、なかでももっとも光彩を放っている。ヒルは、「叫び」事件でも囮となり、ロサンジェルス近郊のゲティ美術館の代理人というふれこみで犯人側と接触をはかるのである。

 「つまるところは知力の勝負だ。どれだけ機転を利かせられるか、想像力を働かせられるか、とっさに嘘がつけるか」

 ヒルは自信満々で、このように述べている。セリフをひとつとちっただけで、頭をショットガンで吹き飛ばされかねない修羅場を、平然とくぐりぬけていく男の姿には、羨望と戦慄と、その両方の思いを抱くにちがいない。

 生活全般が、テクノロジーに支配されがちな現在、生身の人間の力がものを言う世界に堂々と生きる人物に遭遇すると、にんげんとしての勇気が湧いてくる。近年の名画盗難、あるいは贋作事件も取り上げられているが、どの場合も、その解決のカギを握っているのは、ヒルが胸を張る「知力」である。人間、まだまだ捨てたものではないらしいのである。

 もっとも、ここに登場する人間の多くは、ゴロツキ、ドロボー、詐欺師と蔑まれるみなさんである。我々の多くが日常的に接する「普通」の人々は、ほとんど姿を見せてはいない。

 だから、ふと不安になるにちがいない。ひょっとして、日々に暮らしている、この世界は実在するのか、と。人間存在のひろがりと深淵をまざまざと見せつける。それが楽しくもあり、怖くもあり、である。
[2006.3.6.]

書籍データ
『ムンクを追え!』
著者=エドワード・ドルニック
訳者=河野純治
光文社
1700円+税
2006年1月30日初版

表紙写真


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