★書評/『心にナイフをしのばせて』

 「酒鬼薔薇」の事件は、あまりにも有名である。14歳の少年が、小学生を殺して、その首を切り取るなどの残虐な犯行に及んだ。事件から九年経ったいまも、人々の記憶から消えない。

 その28年前にも、よく似た殺人があった。高校生が同級生を殺害し、その場で首を切り離したのである。この事件のほうの少年Aはどうなったのか。著者は、彼が社会復帰して弁護士になったばかりか、某地方で名士として遇されている事実を明らかにしている。

 このルポルタージュは、もうひとつの「酒鬼薔薇」を取り上げる。ただし、Aのその後を追跡することを主眼とはしていない。殺された少年の家族、父と母および妹がたどってきた道のりをつぶさに描き出す。

 父親はすでに亡くなっているが、母と妹は健在と言えば健在。しかし、この三十数年を生きてきたふたりの心の懊悩を知るにつれて、「健在」などと軽々しく言えなくなるにちがいない。

 とりわけ、事件後、いまは老境に達している母親の精神がむしばまれるありさまには、思わずページから目をそらしたくなる。それほどの衝撃を受ける。

 おとなしく、優雅で、引っ込み思案の、この女性のなかから、突然に別の人格が現われて、罵詈雑言をどなりまくる場面は、失礼ながら、怪奇映画のクライマックスを連想してしまう。

 著者は、ノンフィクションの手続きに忠実に、母と妹のもとに足繁く通う。さらには、わずかな証言を求めて、父親の幼なじみまでも探し出して、故人の人となりに少しでも迫ろうと努める。こうして真実がじわじわと、水の沁み出るようにして明らかになる。

 執筆にあたっては、三人称という在来の手法を放棄している。この作品のメイン・キャラクターに据えた母と妹「二人の心理的変化を裏付けることは到底不可能」と判断したためである。代わりに、ほとんどを一人称の語りで通している。

 登場人物たちはそれぞれに、人間っていったい何? と問いかけている。
2006.10.10.

書籍データ
本表紙
『心にナイフをしのばせて』
著者=奥野修司
文藝春秋
1571円+税
2006年8月25日初版


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