★作家の速歩“雑念”集『鰻の瞬き』
■身体のためになにかをするほど不格好なことはない。きわめて不謹慎な発言になるけれど、大の大人が、ビューティ・サイクルで汗を流したり、息を切らせて走っているのは、みっともない。もっとふつうに身体と付き合えないのかね、と口には出さないけれど、心中つぶやかないわけにはいかない。
■ところが、身体は厄介な存在で、しばしばそうした思いを裏切る。とりわけ年齢が進むと、裏切りの連続状態になって手がつけられなくなってしまう。やむをえず「身体のため」の行動をとることになる。しかし、それを真正面からは認めたくない。少なくとも、周りには知られたくない。
■53歳のときの著者は、そうしたジレンマの渦にはまりこみながら、速歩という「身体のため」の運動に救いを求めたようである。もとはといえば、慢性的な腕の痺れ。これをなんとかしたい。いろんなことを試して、最後にたどりついたのが、速歩であった。
■「身体のため」とはわからないような服装をして、手には、さも用事ありげに封筒や葉書を携え、自宅の近辺で往復40分の距離を気ままに歩く。
■50代を通じて、それは実行され、60代になったいまもつづいている。
■「その成果が現在、私の肉体や健康状態にあらわれているかといえば、もちろん目をみはるほどの効果はない。ただ、気紛れに歩いているうちに去来する雑念の数々が、なかなかに面白かったのはたしかだった。‥‥なんともいいかげんな想念が、思いもかけぬほどほとばしり出てくることに、私は何度も新鮮なおどろきをおぼえた」
■その「雑念の数々」が集めたのが本書である。「身体のため」をひた隠しにしてはじめた運動は、「身体のため」にはやはりとりたてた成果をあげていない。しかし、それじゃやらないほうがよかったよ、ということにはなっていないで、自分自身でも気づかなかった心の扉が開かれるようにして、精神の奥底に滞積する想いがおかげで浮かび出てきた。結果、読者は、作家の想像力の源を垣間みるチャンスを与えられたわけである。
■「身体のため」が「心のため」になっていくプロセスには、著者自身の精神のネジ曲がりが大いに関与していて、その曲がり方を観察できるのが、本書を読む、いちばんの快楽になっている。
■14編ある雑念集のひとつであり、表題にもなった「鰻の瞬き」にしても、その発端は速歩コースの川にこのごろ鯉が見えなくなったところにあるが、鰻が魚ヘンつながりの連想から出てくるわけではない。鯉はどうなったのかと思いつつ、一方で、何事に於いても自分には物事を徹底的に追求する癖がないことに思い至る。鯉のことも宙ぶらりんのままになるだろう。それでも、と作家が、だれにともなく抗弁しつつ、持ち出してくるのが、しばらく前にあった鰻の一件である。
■鰻は瞬きをするかどうかを、柄にもなく追求しまくることから生まれた「面白い顛末」には、あまのじゃくを極める歩行者の真骨頂が表れている。
■ウォーキング・シューズの足音は、日常の底をひっそりと流れる通奏低音のごとく、心と身体の基調を整えている。思えば、人生の節目もまた、速歩とともにやってきたのである。
■初夏の一日、妖しく咲いた花々が散り、新緑の若葉に覆われた桜の木を眺めつつ、作家は、自らの還暦の事実が頭に浮かべる。そして、狂おしい花のような半生を過ぎ、これからは、この若葉のように軽みのある生き方ができるのだ、と思いつつ歩む。老人一年生の、それは緩やかな決意であり、「身体のため」と強いて頑張らずにきたおかげでもあろう。
妙に納得する。(村松友視著 小学館刊 1500円+税)
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(『中央公論』誌2001年7月号掲載原稿に加筆)
[2001.7.6.]