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第1章 マティーニ尋ねて、銀座彷徨
地下酒場の主
銀座通りと交錯する大通りの晴海通りにあるマツモトキヨシの角を曲がると、並木通りである。近ごろは、海外の有名ブランドがショップを連ねていて、銀座のなかでももっとも華やかな通りのひとつになっている。
しかし、並木通りを歩いてみゆき通りに出る手前にあるそのビルは、昭和10年代に建ったといい、目立たない、古色蒼然としたたたずまいをしている。繁華の巷をものともせずになお残っていることに不思議な思いさえする。銀座ではよく、このような自己主張の強い建物に出会うことがある。街の歴史の古さと、そして同時に、その歴史を誇る人々の存在を物語っている。
軒灯風の小さな「よ志だ」の看板を頼りに入口を覗くとすぐに、通りからそのままつながっているかと疑いたくなる、みごとなまでにすり減った階段が湾曲しながら地下につづいている。身体をねじり、そしてかがめるようにして、まるで穴蔵のようなバーに至る。
ここには、たしかに以前に一度来たことがある。もう10年あまり前になる。そのときの記憶では、店内は細長いスペースだったような気がしていたのだが、いま見ると真四角であり、その点に違和感がある。しかし、10坪あるかなきかの狭さで、入口ドアの右手に数人で満席のカウンターがあり、左手の奥にテーブル席が少々というレイアウトは、まちがいなく、バー「よ志だ」のものである。
あのときは、カウンターがちょうどふたり分空いていたので、幸運に感謝しながら、連れと並んで、丈高い椅子に腰を下ろした。するとすぐに、赤いヴェストを着けた、かなり年輩のバーテンダーから「向こうへ移りますか」と声がかかり、テーブル席を指差された。
そう言われてもカウンターのほうがいいんだけど、と抗弁しかけると、バーテンダーは機先を制するかのように「同じですから」と付け加える。「同じ」とは、カウンター席と同様で、とくにテーブル・チャージはとらないという意味であろう。
連れのほうが先に立って、奥へ向かったので、ついていく他にない。そのころはバーというところにあまり馴染みがなくて、流儀がわからないという思いが強かったから、ただおどおどするばかりであった。
クッションがあまり効いていない、テーブル席の椅子に腰を下ろして、連れが説明してくれたところでは、いつもカウンターに席を占める常連客がもうすぐ来ることになっていて、そのための場所をあらかじめ空けておく必要があるのだという。ぼくたちは追いやられたことになる。
バーとはずいぶん面倒なところだなという感想を抱いた。勝手に飲んで勝手に帰ることができないなんて、せっかくのお酒がまずくなるじゃないかと、口には出さなかったけれど、内心むっとしていた。
この不満に根拠がないとわかるのは、その後かなりバー遍歴をした後である。ここで言うバーとは、きちんとカクテルをつくるバーテンダーが場を仕切っている酒場のことで、そこでは、客個人とバーテンダー個人とが、しっかりした絆で結ばれている。バーテンダーは何人もの客の相手をするにはちがいないけれど、それぞれの客との個々別々のつながりによってこそ商いが成り立つ。
客が好きな酒を好きな状態で飲む権利がある一方、バーテンダーは、お客の好みを知り尽くしてサービスをする。そこにこそ、優れたバーが立ち上がってくることを知るようになった。
酒を介しての、バーテンダーと客のキャッチボールの場、それがバーである。だから、一見の者がそこに入り込んでいくときには、それなりのマナーが必要になるのであろう。場を乱さないように、自分の居場所を探し、まずそこに止まる。そして、店を観察し、バーテンダーのつくるお酒を味わう。その後何度か通うにつれて、ボールの投げ合いに参加できる。それがバー通いの最低のルールであると認識するようになった。
しかし、「よ志だ」の初回のころは、そこまで気持ちが及ばず、ただ不満な思いが残っただけであった。
それから長い時間が経って、いまカウンター越しに向かい合う吉田貢氏は、長身痩躯、豊かな白髪が日焼けした顔と好対照をなしている。たしかに年配ではあるけれど、あのとき「向こうへ移りますか」と声をかけてきたバーテンダーとは、だいぶ印象がちがう。全体にずっと穏やかで、なによりもゆったりした動作が印象的である。
「今井さんそっくり」
この店はもともと、吉田氏の父親の政吉が昭和34年に開いた酒場である。この人は戦前に帝国ホテルでバーテンダーの修業をはじめ、戦後は一時、占領軍の接収下にあった横浜のホテルニューグランドのバーに勤務していた。占領時代の終わりごろに、新橋のバーに移り、やがて銀座で独立したわけである。「よ志だ」の壁には、かつて画家の岡本太郎が描いた、この父親の似顔絵が掛けてある。
政吉は昭和50年に亡くなって、息子の稔が継いだけれど、数年前に急逝し、弟の吉田氏がその後を引き受けたという。すると、10年あまり前に、ほんの束の間出会ったのは、兄のほうだったことになる。
吉田家はバーテンダー一家である。吉田氏自身は、昭和27年、19歳のときに父親の紹介で、東京會舘のバーにバーテンダー見習いとして入ったのが、キャリアのはじまりである。
東京會舘は、大正時代以来、宴会とレストラン業務を専門にしてきたユニークな飲食施設で、とくに政財界のトップクラスの社交の場として知られた。戦後は占領軍に接収されたが、吉田氏が入ったのは、接収が解除された直後の時期である。
その後吉田氏は、昭和36年に皇居前の一等地に新たにオープンしたパレスホテルのバーに移り、料飲部支配人を最後に平成4年に引退している。本来なら、その時点で酒場の仕事からは離れて後の人生を送るはずだったが、退職後1年も経たないうちに、兄の不慮の死に遭遇し、もう一度現場に戻ることになったわけである。
この吉田氏の履歴を一覧すると、バーの業界を知る人ならば、その東京會舘からパレスホテルへというゴールデン・ルートにすぐに着目するはずである。戦後日本のバーとバーテンダーがたどった道筋に、このふたつは燦然と輝いている。現在、我々が通い、カクテルを楽しむバーの時間を遡行するとしばしば、これらのどちらかとどちらかと、あるいは両方と交錯するはずである。
しかも吉田氏は、今井清という、いまや伝説となったバーテンダーと、30年あまりにわたり一緒の職場に過ごしたことによって、仲間たちからも別格と見られている。
パレスホテルのメイン・ロビーを抜け、皇居の緑を望めるティー・ラウンジの傍らの通路を進んでいくと、その先に「ロイヤルバー」がある。木目の浮き出た重厚なカウンターの端に両手をついて客の相手をする、真っ白いバーコートの今井の隣りにはいつも、大きすぎる影のように佇立する吉田氏の姿があった。それは、昭和59年に今井が現役を退くまで、ずっと変わらない風景であった。
「偲ぶ会」で、出席者が黙祷をしている間、シャカシャカとシェーカーを振りつづけた、白髪のバーテンダーこそ、吉田氏である。
今井はすでにこの世にないけれど、吉田氏のマティーニづくりに、その生前の面影がもっともよく写されていると言われる。「今井さんそっくり」とまで言う人もいるくらいである。きょう、その吉田氏と「よ志だ」のカウンターで相対することになったのは、「今井清のマティーニ」について尋ねるために他ならない。‥‥
《書 評》
■産経新聞 2001年2月24日
昨年、都内の日本海運倶楽部で、「今井清氏を偲ぶ会」が開かれた。享年七十四歳。「ミスター・マティーニ」と呼ばれた伝説的なバーテンダーである。
戦後アメリカン・クラブともなった東京會舘のバーに戦前から身を置いて、パレスホテル開業(昭和三十六年)を機に初代チーフ・バーテンダーとなった。マティーニ-ジンとベルモットだけの、それゆえバーテンダーの腕が歴然とするカクテルの王様。それを完成したと語り継がれる。
「三度来店されたら、その味をマスターできる」
客の舌を盗んでステアする絶妙さに、昭和二十年代からカウンターは常連で占められていたという。戦後の点描を交え一大のバーテンダーを低い視線で浮かび上がらせた佳品。
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