★連載第17回

芝原三千代

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17. アメリカ社会で常識の裁判制度

 9・11の後に出版された小説「パスポート」(ジョナサン・マーシュ/著、鰕原信子/訳、中西出版)は、ニューヨークに旅行にやってきた日本の青年がパスポートを盗られ、彼の知る由もないところでそれがテロ関係者の手に売りさばかれる……という、今考えるとセンセーショナルな内容の物語だった。この本を読むと、ニューヨークの日本人訪問者が、現地でどんな社会の中を泳いでいくことになるのかがよくわかる。そこで、これまで小説「パスポート」になぞらえて、“セキュリティ”“安全の確保”という目から、アメリカの実情について話してきた。

 しかし、これまで話してきたのは、“日本人の目から見た”場合の対策だった。

 もし、これが“アメリカ人の目から見た”対策となると、どうだろう。事態はまったく同じようにはならない。最も違う点は、アメリカ社会に根づく、裁判制度にあると思われる。

 日本でも今日び、法律の見直しによって、2009年からナンと裁判員制度がスタートするという。アメリカでは中学校で模擬裁判の授業があり、大人になったら誰でも等しく陪審員をやるのだということが常識となっているが、それでも生活のかかっている仕事を休んで出廷することに抵抗を示す人も多い。こういった生活習慣のまったくない日本で、いきなり裁判員制度といっても、かなり不安が残る。やりたくない人が70%を占めるというアンケートの数字にも思わず納得してしまう。

 しかし、見方を変えれば、日米間の東洋世界と西洋世界が徐々に同等レベルに近づきつつあるのかもしれない。だからアメリカ人が日本に旅行した場合も、日本の法律というものが理解できるような“法治国家”としての日本の存在が重要になってきているということなのだろう。

 裁判制度に関わる日米間のギャップということで思い出すのは、しばらく前のことになるが、シザワ・マサヒコという横浜出身の日本人男性がブリットニー・スピアズ(グラミー賞受賞のポップシンガー)をストーキングし、ブリットニーから訴えられた事件だ。子育ての不備で大騒ぎされる前から、彼女の周りはいつもかしましい。

 当時は、私のところにも「グローブ・マガジン」という米国の雑誌から依頼があり、このブリットニー・スピアズの日本人ストーカーについて、写真が手に入らないかと言ってきた。

 シザワ本人から言わせると、“自分はストーカーではなく、これは文化背景の違いによる誤解だ”ということで、ブリットニーを訴え返した。しかし、アメリカの法律では、半径1,000ヤード(約914メートル)以内に近づいてはいけない、という判決になった。シザワに雇われたアメリカ人弁護士は、彼は熱烈なブリットニー・ファンであり、決してストーカーではないということを裁判で言っている。
 
 実際、アメリカの場合、裁判ではどうなるかと言うと、もし、この日本人が旅行者でない場合、裁判が適応し、3ヶ月から1年半の入牢となる。運が良かったのは、ひとつには相手が芸能人だったので、熱烈なファンがスターに声援を送るという釈明ができた。もうひとつは、彼が旅行者だったのでアメリカの裁判の管轄に入らなかった。ふたつのラッキーがあったのだ。にもかかわらず、シザワがこれに関して不服であると訴えを出しているのは、単なる文化の違いだろうか。あるいは法律の事情を知らなさ過ぎるから起きることなのだろうか。

 こういった例は今までにもたくさんあり、米政府当局は日本人に頭を悩ませているというのが実情だろう。

 それじゃあ、もし彼がブリットニーと恋人だった場合、あるいはそれよりもっとススんでいて、婚約あるいは結婚するぐらい深い仲だった場合は、ストーカーにならないんだろうか? そういう疑問も沸いてくる。

 しかし、その場合、罪はもっと重くなる。訴訟では、財産没収から始まり損害賠償となるので、裁判上はもっと危険だろうと思う。こういうことは、一般的にアメリカの男性が一応、ジェントルマンらしく振舞っている背景の理由としてあるようだ。“ジェントルマン”がどれだけ大切なキーワードかというと、アメリカには『オフィサー&ジェントルマン』というタイトルの映画もあったぐらい。しかし、80年代半ばに、リチャード・ギアが主役を演じていたこの映画が日本で公開されたとき、タイトルは『愛と青春の輝き』という、まったく別の意味になっていた。

 オフィサーとは、一般的に言うところのLaw Enforcement(司法関係)やMilitary(軍隊)の人。 つまり、法を執行する側なのだ。ポリス・オフィサー、ピース・オフィサーなどは、皆、法を執行する司法機関の人々である。

 そして、ジェントルマンというのは、Civil Rights、つまり自分の権利を持っている人のこと。だから、命令が来てもいかなくてもいい。自分個人の権利を持っているので、自分の権利で決めることができる人のことだ。自分がいやでも命令が来たら行かなくてはならないのは、オフィサーだ。

 ジェントルマンは、自分で責任を持てる。自分でやりたいことをやって、その代わり訴訟が起きたときには、自分の権利のために弁護士を雇って、自分で決着をつけなくてはならない。

 だから、『オフィサー&ジェントルマン』というのは、端的に言うと『(法の)束縛と自由、その中で生きる男たちの物語』ということになる。

 日本人の場合、アメリカ社会に接触したとき、旅行者の立場、学生、あるいは長期滞在の場合で、その人たちの権利の枠が少しづつ違ってくる。

 大方の日本人のケースとしては、3ヶ月のヴィザなしプログラムで遊びに来る人が、やはり圧倒的に多いようだ。もう少し長くいたい人は、ステューデント・ヴィザを取り、学校に行っている形を取って、卒業までの期間を学生の身分で滞在する。問題は、学校の試験を通過しなかったり、登校日数が足りない場合。それが不可能になる。それで、選ぶ学校をダンス・スクールとか音楽学校とか、そんなに毎日行かなくてもいい学校を選ぶ若い子が多い。学校に所属していれば、別に何をしていてもいい、ということになってくる。しかし、これも9・11以降は法律が変わり、出席日数を今までよりずっと厳しく問われるようになった。

 これらは、どうやって安易にアメリカをエンジョイできるかというノウハウを、友だちづてに聞いたり、あるいは経験者から預かった知恵で生きていくやり方だろう。しかし、そのとき即座に頭に浮かべるべきことは、もし裁判や法律の網にかかった場合どうなるか。それらの罪や罰則などが自分に直面してくることを知っていなければ危険だ。

 別に、毎日を四角四面に生きろというわけじゃない。自分が直面したとき、その対応を間違えたばっかりに大事な人生を棒に振った……なんてことがないように、その説明をここでしたいのだ。

 カリフォルニアに留学したある日本人学生が、始めはストーカーということでキャンパス・ポリスに捕まった。キャンパス・ポリスは一般の警察と違うので、罪にはならない。その代わり、ディーン(学長)により、停学処分を言い渡された。

 これと似たようなケースは多々ある。そのストーカーの度合いによって、問題が違ってくる。

 彼の場合、自分はストーカーではない、と主張した。ただ、相手の女子学生を殴っただけで、それは、ちょっとした意見の違いから起きたケンカだという解釈だった。

 しかし、女子学生側から言わせると、強引にデートに誘われ、ストーキングもされていた、それがもとで先生に言いつけることになった、と。

 彼は、自分たちプライベートの問題を先生に言いつけるなんて、ということで彼女を殴ったという。

 ここでややこしいのは、彼がプライベートの問題として解釈していたことが、学内のクラスと友人関係のあいだで起こったことだったので、アメリカでは公共の問題として扱われたことだ。もちろん、学校以外の場所で交際して問題があった場合は、別らしい。

 おまけに、彼は停学処分に対して苦情を述べ、説明しようとした担当教授を振り切ってクラスに逃げ戻り、そのあとを追った教授の顔前で、思い切りドアを閉めたらしい。それで教授は危うく大怪我をするところだった。これが第二の罪となって、キャンパス・ポリスから強制立ち退きを要求されることになった。

 ストーリーはこれだけで終わらず、弁護士をつけたその彼は、学校に対して訴訟を進め、今度は学内問題ではなく、一般の裁判所で、その行為が犯罪かどうかを調べられることになった。

 本人は、他州の大学へ編入して、問題があと腐れしないようにと考えたらしいが、すでに一般の裁判で、ストーカー・人身障害・学則違反の罪による1年半の求刑が言い渡された。こうなると前科一犯ということになるので、裁判に出頭し、自分が無罪であることを証明しなければならなくなった。

 さて、そこで、いちばんに考えなければならない基準は、自分の弁護士が、裁判で守れるだけの自分を基本的人権を確立し、自分の道徳的な性格を示して、それを証明することだ。これはアメリカ人、日本人、他の外国人を問わず、万人に等しく言える基準だ。

 そのためには自分が無罪である場合も、交通事故のように運悪くその場所に居合わせてしまった場合なども含んで、そのすぐ周りにいた人が、味方として証言してくれることが必要だ。自分が正しいということを公的に言ってくれる証人が必要なのだ。そこまでが、あらゆるできごとにおいて、最も基本的な重要案件となる。

 しかし、そのあと、もし自分がパニクってわめいたり、見ている周りの人まで傷つけようとしたり、あるいは自分のしたことをまるで証拠隠滅でもするような動きや隠し立てなどをした場合は、それらが別の形で追及されることになる。そこが皆、よく分かっていない点なのだ。ヘタをすれば、自分の道徳性や人間性を疑われる結果となってしまう。もちろん、人種差別(よそ者)的な扱いも充分考慮しなければならないので、自分の権利は権利として、しかし、それを証明するその後の行動が良い方向に行くような動き方をしないといけない。そうしない限り、文化の違いから相手に間違って理解されたり、カン違いされたり、“ナンでこうなるの?”と驚くことがいっぱい起きてくる。

 これは大事なことだ。旅行や短期滞在における、現地のネイティヴとの出会いと人間関係、あるいは長期滞在における近所づきあいを考えたとき、もっとも重要なポイントになるだろう。

 ところで、前出の停学処分をくらって大学を訴えた日本人大学生の場合は、どういう行動をとるべきだったのだろうか。それは、次回に解明してみたい。これを読んでくださった皆さんはどう考えるか、ご意見をいただければ幸甚です。

[2007.3.2.]
text ©Michiyo Shibahara

筆者・芝原三千代のこと
1989年より東京とニューヨークを行ったり来たりし始め、在ニューヨーク(いつの間にか)10年。ニューヨーク外国人記者クラブメンバー。かたわら米国の非営利団体ジャパニーズ・カルチュラル・エクスチェンジのディレクター。ディンキンス市長、ジュリアーニ市長、国連大使などより文化活動について感謝状を受けた。

芝原三千代の連絡先
mailto: SHIBAHARA


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