★書評『この話、したっけ?』(青山南著)
ページを動態化する■
本の構成で、見開き完結という手法がある。見開き2ページで一項目を終え、これを最初から最後までまで続けると、100項目前後でちょうど200ページあまりの本が一冊できる。実用書などでよく使うやりかたで、評者も、30代のころゴースト・ライターをしていたときに、心理法則とかマナー、あるいは旅のガイドブックなどを、盛んにこれで書いた経験がある。
印刷媒体独特の、ページという概念を最大限に活用したやりかたである。目の前に開かれた、文字どおりの見開きが全てで、ページを繰れば、別の「部屋」が現れる。しかも、そのそれぞれは関連し合いながら、全体で本という「一軒の家」になる。
本とはなにかを端的に表現しているのが、この方法だと思う。
本書『この話、したっけ?-インターネットでこんなに読めるアメリカ文学』(研究社出版 2001)も、体裁は見開き完結である。著者は、アメリカの現代作家をめぐる噂やゴシップ、ときにはスキャンダルの情報を紹介しながら、アメリカ文学の現在をそれとなく語っている。軽妙洒脱。深い造詣が、表現の端々に現れるところが読みどころになっている。
ひとりの文学者、一冊の本、ひとつの事件など、ワン・テーマずつ、見開き毎に区切られる。それだけではない。さらに念が入っている。見開きが、右の縦組みページと左の横組みページに分割されていることである。そして、それぞれのページは役割がちがい、右の「本文」に対して、左は長めの「注」になり後日談やプラスアルファの情報に当てられている。
たとえば、ラッセル・バンクスの作品『狩猟期』を取り上げた項目がある。この小説には暴力的な父親が登場する。これは自身の幼児体験がもとになっていて、バンクスの左瞼が下がり気味なのは子どものころに殴られたせいだと作家は信じているという話が縦組みの右ページ。これを受けて、横組みの左ページでは、同じ作品が映画化され、父親役のジェームズ・コバーンの不気味さが出色だったことなどが語られる。
この例でもわかるが、組みを縦横変えることによって、見開きを、いわば「動態化」している。つまり単に2ページでひとまとめにするということではなくて、右から左へ移行する間に、時間の経過や別のアングルといった要素を入れ込んでいる。
組みのちがいに読むほうははじめとまどうけれど、見開き全てが同じスタイルなのだから、やがて慣れてくる。すると、ひとつの話題がいっそうの展開をしていく「動態」そのものを感じとれるのが、興味深い。
かくて、殺気をはらんだ異色の作家バンクスが、やがてその作品のいくつかが映画化され好評を博すにつれて、「名画の原作者」の相貌を呈する変化が納得できるわけである。
新聞雑誌からインターネットへ■
ところで、縦横一体の見開き完結という新手法は、メディア状況の変動に促されたものだという。著者が、「ネタの仕入れ方」に於ける「大きな違い」と述べているのがそれである。
つまり、縦組みの右ページは、主に新聞雑誌からの情報に依拠している。一方、横組みの左ページは、インターネット上で拾ったものの「恩恵」にあずかっていて、関連サイトのドメイン名を太字で表示してある。本書のサブタイトルが「インターネットでこんなに読めるアメリカ文学」である理由はここにある。
評者は昨年の暮れに『WAVEtheFLAG-東京発のアメリカ通信』(トランスアート)というオンデマンド本を上梓した。1994年から、はじめはファクス、後にメールで発行してきた個人メディアのアンソロジーである。その経験から、本書に親しみをおぼえた。
と言うのは、小著では、全て横組みにして、各ページの端に3分の1程度のスペースをとり、そこに、本文と関連するか、関連するかもしれない情報を流し込むスタイルをとった。一冊通しで、そうなっている。
第三者的な言い方になるが、インターネットという大波に遭遇した書き手や編集者が、そのショックを吸収しようとしてとる行動という点で、両者は同じところに立っている気がするのである。書物の基本でありつづけるページ構成を保ちながら、そこに情報環境の流動化を反映させようとする姿勢において、共通しているのではないか。
そういうわけで、この本には同志に相対するみたいな親近感が湧くのである。こちらの勝手な思い込みかもしれないけれど。★
(『本とコンピュータ』2001年春号掲載)
(2001.5.1)
(2001.5.1.)