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★変わりはじめた、日本人の時間感覚
ケータイが革命をもたらす■
先ごろの冬季オリンピックで、フィギュアスケート競技の採点の際、審判員に不正行為があったことが話題になった。小数点以下の数字を操作したとかしないとか。おかげで金メダルが一競技でふたつ出たりした。
しかし、百分の一秒差でメダルを逃した、スピードスケートの選手には、ただ「残念だった、惜しかった」の声しかない。時計がちがうんじゃないかといった疑惑が持ち上がることは、こういう場合、まずありえないであろう。
時間は神聖であり、絶対である。過去から未来へ一本の直線のようにそれは続いていく。少なくともそう信じられている。時間に忠実な人間は、信頼され、高い評価を受ける。「時間にルーズ」は、対照的に、非難の眼差しを向けられがちである。
慌てふためいて約束の時間にかけつけるよりは、少しぐらい遅刻しても心にゆとりを持ちながらやってくるほうがいいという議論は、少なくとも、近代の日本社会では成り立たなかった。
ところが、このごろ風向きが変わってきたらしい。日本の鉄道が、世界に冠たる秒刻みの定時運転をするに至った軌跡を追うルポルタージュ『定刻発車』を読むと、そのことを痛感するのである。
本書は、正確無比の運行バンザイでいいのかと問いかけるくだりが圧巻である。鉄道員にも乗客にもゆとりが感じられる鉄道をつくるための模索がすでにはじまっていることを伝えている。
これを可能にしたのが、情報技術である。「誰もが簡単に情報の発信者になれるネットワーク社会では、人々の生活のリズムも大きく変わり始めている」と述べる著者は、ケータイが日本人の時間感覚に革命をもたらしつつあることを指摘している。
そのいい例が待ち合わせの場所や時間で、どちらももはやガチガチに決めておく必要はなくなった。移動しながら、ケータイに話しかけ、柔軟に変更できる。そんな時代に「定刻発車」を金科玉条にはできないではないか、と。
職場でも、家庭でも、軍隊でも■
もともと、時間へのこだわりは欧米から日本に持ち込まれたものである。ヨーロッパのなかでも正確な運行で知られるドイツの鉄道は5分と違わないという。ところが、これが日本になると、さらに厳しくて「1分と違わず」ということになっている。いまは、向こうがこっちに学ぶ立場である。
こうして欧米をふり仰ぎつつ、ついにはこれを凌駕するに至るいきさつについては、共同研究『遅刻の誕生』に詳しい。
近代化への道に遅れて踏み出した日本は、時間についても、欧米に追いつくことを目標とした。そのための定刻志向のモデルが鉄道であったし、時間厳守の習慣は労働現場への科学的管理法の導入を通じて浸透していった。
興味深いのは、明治の後期にはすでに、家庭でも時間割をつくって家事を計画的に行おうとの呼びかけが、婦人雑誌で盛んに行われていたことである。
また、時間意識をひろめるのに功績のあった集団に、軍隊がある。
『腕時計の誕生』では、徹底した資料調査で、近代的な腕時計は、記録に残るかぎり、1880年にドイツ海軍が注文したものが最初であることを突き止めている。それから20年後、中国における義和団の反乱に出兵した日本の軍隊では、すでに下士官の伍長ぐらいでも腕時計を携帯するまでになっていた、という。
現在も残る13時、14時‥‥という言い方も軍用表現の名残りだが、時間の定着に果たした軍の役割は大きい。
社会生活や家庭生活ばかりではない。精神生活もまた、時間というコンセプトなしには考えられない。ロングセラーの『時間と自己』は、分裂病やうつ病などの精神病理を手がかりにして、自分という存在が時間と折り合いをつけながら「永遠の現在」を生きていくための、スリリングな生の哲学を説いている。
行進する兵士と踊るバレリーナ■
こうして、文明社会にはこれまで、自分の外にも内にも、すっぽりと時間という網がかぶさっているようなものであった。網に守られていることはたしかだが、うっとおしくもある。とりわけ、網目のほつれを丹念につくろいながら、つねにまっすぐ前を見つめて過ごすことを旨としてきた日本人にとっては。
そんなとき、「時間の画一性のあとに、時間の複数性が続く」と簡明に言ってしまったのは、カナダのコミュニケーション学者マーシャル・マクルーハンであった。1964年に初版が刊行された『メディア論』は、インターネットが地球を覆ういまを予言したマクルーハンの代表作である。
このなかで、彼は自動車、新聞、電話、テレビ、兵器、ゲームなど各種のメディアに一章ずつを割きながら、「電気の時代」を論じている。
なかで、時計についての章では、これまでのように、産業と輸送が凝集し、国家組織が一元的に支配してきた状況を「行進する兵士」たちにたとえている。彼らは規律正しく、まっすぐに進む。それが「時計空間の画一性」である。
しかし、いまや、権力は中心を失って分散をはじめ、電子情報が縦横に飛び交う。マクルーハンによれば、これは「バレエ」に似ているという。踊り手のひとりひとりは、勝手気ままに踊りながら、その全体を観客は美しいと感じ、讃える。明らかにちがう世界である。
この兵士とバレリーナの対照は、先の『定刻発車』の著者の、次ぎのような記述とも響き合うであろう。
「これからの情報社会で人と人は、それぞれが情報を発信しながら、最も適切な場所とタイミングを図りながら、出会ってゆく。いったん決めた約束は状況次第でいつでも変えられるのだから、緊張感がないといえば、緊張感のない社会にもなるが、それだけ人間の側にゆとりもできている。人はもっとものごとに集中して取り組めるようになるだろうし、相手を気遣うことにもっとエネルギーを掛けられるようになるかもしれない。農業社会や工業社会と違って、情報社会では、太陽の動きに合わせるのでも、機械の動きに合わせるのでもなく、人と人の関係が生活のリズムをつくる」
鉄道ものの書き手には、少年時代からレイルウェイの魅力にとりつかれてきた男性が圧倒的に多いが、この著者が、珍しくも(失礼)女性であるのは、なにか暗示的である。
たくさんの時間が登場して、人間たちそれぞれの必要に奉仕くれるようになるであろうか。
(『プレジデント』誌2002年3月18日号掲載原稿に加筆)
〈ここで取り上げた本〉
『遅刻の誕生』橋本毅彦・栗山茂久編著 三元社 本体3800円
『定刻発車』三戸祐子著 交通新聞社 本体1848円
『メディア論』マーシャル・マクルーハン著 栗原裕・河本仲聖訳 みすず書房 本体5800円
『時間と自己』木村敏著 中公新書 本体660円
『腕時計の誕生』永瀬唯著 廣済堂出版 本体1000円
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