★「玉砕総指揮官」の絵手紙

 1928年(昭和3年)、陸軍大尉栗林忠道は、アメリカ留学を命じられた。日米戦争がはじまる13年前のことである。足掛け3年、日本を離れている間、大尉は、幼いひとり息子・太郎くんに絵入りの手紙を送りつづけた。その後、中将に栄進し、硫黄島守備部隊の総指揮官を命じられる。戦地からも、娘のたか子に手紙を送っている。終戦の年、本土侵攻の前哨地点になるはずの硫黄島は、アメリカ軍によって徹底した攻撃を受け、栗林は玉砕して果てる。
 新刊の『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(吉田津由子編・小学館文庫・定価630円)には、栗林がひとりの父親として、子どもたちに書いた手紙の数々が一堂に会している。
 同書の解説として書いた原稿に、若干の加筆をして、以下に収録する。


∞∞

 後の陸軍中将、栗林忠道が、アメリカ留学を終え、ヨーロッパ経由で帰国したのは、1930年7月である。40歳であった。その一ヶ月後の8月、ワシントンでは、当時のフーヴァー大統領が、陸軍参謀総長に49歳のダグラス・マッカーサーを任命すると発表している。合衆国軍史上最年少の栄達であった。
 それから15年後の45年、ふたりの軍人の運命はくっきりと明暗を分けることになる。
 栗林は、アメリカ軍の猛攻に耐えて硫黄島を死守すること半年、遂に陣頭に戦死する。こうして最終局面を迎えた日米戦争は、間もなく、広島と長崎への原爆投下で決着した。無条件降伏することになった日本に、占領軍総司令官としてやってきたのがマッカーサーであることはよく知られている。
 硫黄島の砂に没して消えた日本人指揮官と、戦後の廃墟に君臨したアメリカの英雄との対照は、あまりにもあからさまである。それだけに、留学中の栗林が、幼い長男のために描き送った絵手紙の数々に横溢する、伸びやかで優しい心持ちにいっそう胸を打たれる。

 栗林が滞米中の29年秋、アメリカ経済はニューヨーク証券取引所の株価大暴落に端を発する大恐慌に見舞われる。それから約10年間、アメリカは苦難の道を歩むことになるのだが、この絵手紙からは、そんな気配はまるで伝わってこない。
 子どもに宛てた手紙だからということも、もちろんあるだろうが、彼は軍隊というシステムに抱かれていたのである。アメリカの場合も、軍は特殊な集団であり、国家の守りとして、一般社会の外にある。
 大恐慌の初期、生活に困窮する退役兵士たちが、軍人恩給の早期支払いを求めて、首都ワシントンに集まり、議事堂の周りに抗議のキャンプを張ったことがある。これを最終的に「掃討」したのは、マッカーサーが自ら率いた歩兵部隊であった。このときの副官が、後のもうひとりの戦争英雄であり、大統領にまで上りつめるドワイト・アイゼンハワー少佐(当時)である。
 この事件は、軍の役割をよく物語っている。なお、この作戦は一般にはきわめて不人気で、フーヴァーが次ぎの大統領選で、フランクリン・ローズヴェルトに敗れる一因になった。
 日本陸軍の超エリートであった栗林は、当然、マッカーサー・アイゼンハワーの側にいるわけで、激動を敏感に受けとめる立場になかった。絵手紙のなかに出てくるアメリカ人も、軍人たちとその家族、それに寄宿先のおばちゃんやメイド、あとは、息子を思い出してから、ときとして街の子どもたちぐらいである。資本主義経済の主役であるビジネスマンや労働者の姿は現れていない。
 しかし、もともと新聞記者・外交官志望だったという栗林は、目前の政治経済の風景に惑わされなかったために、かえってアメリカ文明の核心部分を正しくとらえていたと思われる。それがクルマへの高い評価となって表れている。
 絵にも手紙文にも、執拗にクルマが登場する。自ら購入したのが当時最新流行の車種シボレーK型だったところにも、その執着ぶりが見える。夢のなかに、彼に運転を教えられながら、あまりのむずかしさに涙ぐむ妻が出てくるところなど、とても微笑ましい。
 注目すべきは、クルマを走らせる楽しさにしばしば言及していることである。中西部カンザス州の陸軍駐屯地に滞在中に送った手紙では、「御父さんの一番(の)たのしみは やはり田舎道をひとりで 『ドライブ』することです」と、息子に告白している。
 アメリカ人が「ドライブ」に興じるようになったのは、この1920年代からであった。21年の連邦ハイウェイ法で、州ではなくて連邦政府が道路建設の主役となることが定められた。以来、ガソリン・スタンドは、ロードサイドの見慣れた風景になったし、旅行者のための宿泊施設モーテルのはしりも、この時代に登場している。
 栗林は、29年の暮れに、カンザスから首都ワシントンまで1,200マイルあまりをクルマで走破した。中西部から東海岸までの道路が完全舗装されて間もないころのはずである。当時、彼のようなかたちでアメリカを旅した日本人はごく稀であった。
 アメリカ人自身も、クルマのおかげで、このころからやっと自分の国を体感できるようになった。以来いまも変わることなく、アメリカを知るのに最良の方法は、ニューヨークなどの大都市にとどまるのではなく、路上を延々と移動することなのである。
 どこまでも続く道、いつまでも変わらない風景、あるいは突然に変貌する環境、そしてクルマの内外を行き過ぎる種々さまざまの人間たち、それらの集積から、アメリカの真実がはじめて立ち現れると言ってもいい。
 栗林は、「ドライブ」を介して、この巨大国家を身体で受けとめたのにちがいない。
 中西部の荒野を走っては、「どこに行ても広いなあ これを考えると 日本はほんとに みじめなものだ」と感慨を洩らす。また、メイドのお婆さんに愛車を見せられて、「こんな婆の自動車でも 日本の田舎を走っている 乗合自動車より よっぽどいいや ほんとに日本も どうかしないといけないな……」と考え込んでいる。
 後々、この軍人は、アメリカの膨大な生産力に対する日本の当局者の無知無理解をしきりに慨嘆していたそうである。
 アメリカの国土の広大さと、これを征服していくクルマの威力。後に、圧倒的に強力な敵に完膚無きまでに叩きのめされる硫黄島の栗林中将の脳裏に、田舎道をひたすらに「ドライブ」してまわった、遠い日々が浮かんでくることがあったであろうか。

 この本の絵を眺め、手紙の文章をたどっていると、奇妙な違和感に襲われる。それは、軽い筆遣いの線画と、傍らの文章とが、別々の方向を向いているのに気づくからである。
 たしかに、文章は、異国にいる父から幼い「太郎君」への呼びかけとして書かれているけれど、絵のほとんどは父・栗林の視線では描かれていない。父はむしろ「被写体」として、だれかに見られている構図になる場合が多い。
 「だれか」とは、息子である。「太郎君」の目になって見たシーンとして描き出すので、絵のなかに自分自身が入り込んでいるわけである。
 栗林は、この絵手紙を書きながら、終始、自分は息子でもあり、息子は自分でもあるという複眼を想定していたのではないか。
 息子に伝えたいこと、教えたいこと、知らせたいことは、きちんと文章にしたためる。その一方で、息子の目を借りたつもりで、自分を含めた、その場の光景を描く。いまここに、幼いあの子がいたら、どう見えるだろうかと、つねに考えているのである。
 それは、あの子がいてほしい、家族と共にありたいという願望につながる。妻を想い、子どもたちを想うあまり、運転席で、こんな妄想が浮かんでくる。
 「そろそろ速度を増そうか
 とても愉快なものだな
 まるで滑って行くようじゃないか
 でもこんなにうまくなると
 ひとりじゃつまらないな
 太郎君がいた(ら)な
 御父さんの右へ座らせるんだがな
 そして洋子(アメリカへ発った後に生まれた長女)と御母さんは後の座席だ……
 どら今度は あの方面にまわって行(っ)て見ようか
 今日は人手が少なくていいあんばいだ
 やあとても別嬪共が行くな
 それにあの乱暴な禦(御)し方はどうだい
 今度はあそこを曲ろうか やっ メキシコの子供だ
 危い危い ブーブーブー」
 心の内が警笛に託されている。
 当時「太郎君」は、まだ文字が読めなかった。だから絵を描いて文を添える方法を思いついたのである。アメリカから留守宅に送られてくる絵手紙は、母親が、息子に絵を見せながら読み聞かせたとのことである。したがって、幼い子は絵のなかのシーンに感情移入しながら、父と母とふたりのものとして手紙を受け取るにちがいない。
 この絵手紙は、今風に言えば「インタラクティヴ」(双方向)である。父と母と息子とが、手紙を囲んで、それぞれに送り手になり受け手になる、ヴァーチャルな関係が形づくられている。
 父は息子の目となり妻に語りかけ、母は遠くにいる夫の声に耳を傾けるようにしながら息子に語り聞かせる。息子は、母ばかりではなく、そこにいないはずの父の存在を強く意識したであろう。
 父と母とが子をひたすら慈しみ、その成長をほとんど唯一の喜びとしていた、かつての日本の家庭。絵手紙は、その理想の家庭像を守り抜くための、ひとりの人間の必死の努力でもあったにちがいない。
 
 それから十余年、同じ人物が、家族への手紙のなかで「夫として父として、御身たちにこれから段々幸福を与え得るだろう」ことがかなわなくなったと告白せねばならない。「国難に殉ずる」覚悟を語り、「これも何等かの運命と心得、これから先きを気強く元気に朗かに幸福に暮して下さい」と別れの言葉を述べることになる。
 それが戦争というものだと言ってしまえばそれまでのことだけれど。★


この記事のURLを友人・知人に知らせる


Amazon.co.jpアソシエイト

(2002.3.15.)

HOMEBACK