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まえがき
「日本の十字路」の力
知り合いから電話があった。
「銀座四丁目の交差点に近い教文館の前に、夜になるとかならず易者がいたよね。このあいだ行ったら姿が見えないんだ。どうしたのかなと思っていて、二、三日して通りかかったら、またいない。どうしたんだい、あれは?」
「どうしたって言われても、わかんないよ。ぼくは本人じゃないんだから」
「そうだけど。あるべきものがない、いるべき人がいないっていうのは、なんか気になるよ。きみなら銀座ウォッチャーだから知ってると思って」
銀座ウォッチャーという肩書きまでいただいては、放っておくわけにいかない。たまたま当の易占者の小石河雅仁氏とは旧知なので、電話をしてみる。ちょうどアカデミー賞授賞式の中継をテレビで見ていたところだという氏は、元気そうな声である。
「べつにやめたわけじゃないんだよ。建物の工事がはじまって、あそこには出られないから、他の場所にいるんだけど」
以前には銀行が入っていた部分の一階と二階に、ブティック「ザ・ギンザ」が進出することになり、長いこと、そこに工事用の白いカバーがされていたのは知っている。
もっとも、ブティックは三月二十二日にオープンした。開店当日、ぼくも出かけていって、入り口のL字型になった自動ドアが珍しく、どういう仕掛けなのか、そこを出たり入ったりして「研究」したものである。
すると、まもなく占いのほうも、元の場所に復帰するのか。というと、そう簡単にはいかないらしい。
ブティックの閉店時間は午後八時で、完全に終わるのを待って占いの台を出すと八時半になってしまう。小石河氏は、これまでずっと午後七時から営業してきたので、ここまで時間的にずれ込むと「使いにくい」という。とりあえず他で店を出して、時刻を見計らって移ってくるか。しかし、占い師が途中で移動しては、客が戸惑うのではないか。どうしようかと迷っているのだそうである。
迷うのには、もうひとつ、小石河氏自身の事情もある。じつは、この易占家には、哲学者という別の顔がある。聖書を読み解いて、神話の構造を明らかにする論文の執筆をつづけてきたが、いよいよ完成に近づいたという。インターネット上に、ホームページをふたつ持って、すでに発表をはじめている。
「反応もいいので、書き上がったら、アメリカへ行き、研究生活に入りたい。私も、髭に白いものが混じる年齢になったし」
と、電話の向こうで笑っている。
この人物に初めて会ったのは、十一年前の昭和六十一年(1986年)である。ぼくは、ある新聞のコラムに、そのころは三十代はじめだった、このニュー・ウェーヴの易者に触れた文章を書いた。その一文のなかに、銀座の街について、次のような記述がある。
「銀座は夕闇が下りると、四丁目交差点を境に、ガラリと雰囲気がかわる。新橋寄りの五〜八丁目は酒場やクラブの集まる華やかな街。一方の京橋寄りは、つとめ帰りの人が足早に歩き、少し遅くなると、有楽町近辺の映画館の客が、ついでに散歩するシラフの街である」(『今日も銀座へ行かなくちゃ』講談社文庫・所収)
交差点をはさんで別の街のようになると述べているのだが、いまではそうとも言えない。一丁目から四丁目にかけての銀座にも、その後、若い人が集まる店がずいぶん増えて、「華やかさ」では、交差点の向こう側にひけをとらない。「ザ・ギンザ」のような「二十代から三十代の働く女性向け」のファッション店も生まれたわけだし、一足先に、アメリカからやってきたコーヒーショップ「スターバックス」が日本一号店をここに出して話題になった。
近年、東京は急激な変化をしつつある。新都庁のある新宿と、ウォーターフロントとを軸にする、二十一世紀のスーパーシティの姿が見えはじめた。明治以来ずっと、日本中でもっとも街らしい街でありつづけた銀座も、当然「東京の変貌」の外側にいることはできない。最近の不変と変化のせめぎあいは、この街を活気づかせてもいるし、不安にさせてもいる。
我が易占家の現在にも、過渡期の街が反映されている。少し前までは、占いの順番を待つ若い女性たちの長い行列が、暗く沈んだビルを巻くようにして、歩道につづいていたものである。いまは同じビルがまるで発光しているみたいに明るく輝き、まばゆい灯りが館内のディスプレイを浮き上がらせている。
一年後、あるいは二年後、銀座を後にし哲学研究に没頭するコイシカワの消息が、アメリカからもたらされるかもしれない。
ぼくは、十数年前に、本誌で「銀座の旅ノート」という連載を書いた。いままた、銀座の街にしばらく取り組むことになった。今回、選んだテーマは、銀座の中心を占める四丁目交差点である。
この交差点のことは、東京の人でなくても、ほとんどの日本人が知っている。「四丁目」と聞けば、横断歩道周辺の光景がすぐに目に浮かんでくるほどではないか。
銀座のシンボルの感がする和光の建物をはじめ、円筒型をした三愛ビル、ショールームのある日産のビル、さらに銀座三越と、四隅にある建物の名前を、すぐに言える人も少なくないはずである。テレビや映画では、しばしば、この交差点の映像によって、銀座を代表させる。したがって、「日本の十字路」と言ってもいいぐらいに、それは、人々のなかに確固とした位置を占めている。
この超有名な地点に、時を自在に越えていく万能のキャメラを据えっぱなしにし、その過ぎゆく時間をそっくり記録するようなつもりで、界隈の過去と現在をレポートしていきたい。その果てに、銀座の今後が見えてくるのか、こないのか。それはまだ、いまはわからないけれど。
交差点を間近にしながら座りつづけた小石河氏にも、ゆっくり話をきいてみよう。最初の店がある七丁目から、交差点とはワン・ブロックしか離れていない地点に進出してきた「ザ・ギンザ」の関係者にも会ってみたい。
交差点に凝縮された銀座は、いったい、なにを告げてくれるであろうか。
交差点で思い出すことがふたつある。
ひとつは三年ほど前に、そのときですでに在日五年になる北京出身の写真家と待ち合わせたときのことである。初対面のこの人と、銀座で会うことになり、わかりやすい場所がいいだろうと思い、電話で、時計の下はどうかと訊いたら、それならわかるというので、簡単に決まった。
ところが当日、和光のウィンドウの前で、三十分待っても、それらしい人物は現れない。日本が長いとは言っても、やはり外国人だから、どっかで迷ったのだろうと、「差別的」なことを考えているところへ、やっと登場した。聞けば、別に迷子になったのでも、遅刻したわけでもなかった。
理由は、時計違いである。ぼくにとっては、銀座で「時計」と言えば、四丁目交差点の和光の屋上にあるヤツしかない。ところが、その中国人は、マリオンのカラクリ時計だと思って、そっちでずっと待っていたという。
マリオンは、地名としては有楽町だが、たしかに銀座の一部の感じで、これはどうも、ぼくのほうが、固定観念に凝り固まっていたらしい。日本人にとっては、四丁目の時計塔のイメージが強すぎるんだと、ぼくは、自分の思い込みを、昭和の初めからそこにある時計のせいにするみたいな言い訳をしたものであった。
もうひとつは、その少し前だが、マドリードで画家になっている友人から、突然電話があった。ちょっと東京に戻ってきていて、京橋にいるから、会えないかというのである。待ち合わせ場所に、銀座三越のライオン像の前を指定された。銀座だよね、日本橋の三越のライオンじゃないねと念を押したら、ずっと東京を離れていても、そんなつまらない間違いはしないと、言い返された。
このときは首尾よく会うことができた。
ライオンの前で会ったのだからと、大した意味はないけれど、四丁目の交差点から七丁目のライオンまで歩いていった。午後二時過ぎのことで、がらんとしたビアホールで、ぼくたちはジョッキを上げて、久しぶりの再会を喜びあった。友人は、長いアフリカ旅行から帰ったばかりだとのことで、持参した写真の束を見せてくれた。
一枚、一枚眺めながら、ぼくは不思議な
思いにとらえられた。
友人はかつて、新宿でバーを経営していた。ぼくは二十代から、その店の客であった。このときから数年前に、店を他の人に譲ってスペインに移住して以来、初めての出会いである。写真のなかの友人は、泥にタイアがはまって動けなくなったジープの脇に呆然としていたり、真っ黒な子どもたちとふざけあっていたりする。
ビールのお代わりをするうちに、酔いがまわってきたせいもあるのだろうか、いろんなことがごちゃごちゃになっていく。銀座も新宿もアフリカも混然として、ぼくたちが若かったころがそのままずっとつづいているみたいに錯覚してしまう。このときの三時間は、いまも特別な時間として、ぼくのなかに残っている。
このふたつの思い出は、どちらも人との出会いに関わるものである。銀座をめぐる記憶のなかでも、ピカ一ピカ二にランクされる。まず、忘れることはないであろう。
この交差点では、何百、何千の出会いが繰り返されてきたにちがいない。ここで結婚式を挙げたカップルの話を読んだこともある。ジーンズにTシャツの新郎と新婦が、和光側と三愛側に別れて、同時に横断歩道を渡りはじめ、出会った地点で指輪を交換しあったという。(朝日95・8・19夕刊) 人が交錯し散り、また交錯する。この交差点は、銀座のパワー・ポイントである。
(2000.12.21)
▼銀座のホームページ「銀座コンシェルジュ」に、本書の著者とのインタビューが掲載されている。
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