★英語訳『海辺のカフカ』を読む

 『海辺のカフカ』の英語版 Kafka on the Shore が売り出された今年初め、どのメディアが最初に書評に取り上げるかに、注目が集まっていた。活字メディアでは、イギリスの雑誌『ニュー・ステイツマン』が先頭を切ったらしい。村上春樹の作品は、海外の読者からも、それほどに熱い視線を向けられている。

 とくに欧米で、日本の作家として名前が挙がるのは、まず村上春樹か吉本ばななで、その次に、大江健三郎の名前が出てくるという順序であろうか。

 『海辺のカフカ』は、日本では、ハードカヴァーも、最近出た文庫版も、2巻本になっている。一方、アメリカのアルフレッド・A・クノッフ社刊行の英語版は、400ページを越える大冊の1巻本である。厚くて大きく、重い。ずっしりとした大冊を手にすると、いまさらながら、彼我の力の差、「彼ら」の肉体的なパワーの巨大さを思わないわけにはいかない。

 英語という別の言語を介して、この「彼ら」の頭のなかに入っていく村上春樹とは、いったいどんなかたち、どんな装いをしているのか。英語版を読んだ。自分自身のことで言えば、英語の本に向かうとたいてい、言葉の流れになかなか入り込めず、最初の30ページほどが進めなくて往生するのだが、これは、そんな思いもなく、比較的スムーズに読了できた。

 もっとも、読後の感想を一言で言えば、

 〈この作家はもっとおもしろかったはずではないか?〉

 という疑問符付きのものになった。

 端正だが、こわばった感じのする訳文には、違和感がつきまとった。英語を母国語としない者でも、楽に入っていける訳の仕上がりに敬意を表しながら、それにしてもさっぱりしないのである。

 あらためて、日本語のほうの『海辺のカフカ』に行ってみた。そこには、カルロス・カスタネダに通じる意識のかっ飛びが満ちているし、デヴィッド・リンチはもちろん、ときにトム・ロビンスを思わせるような荒技も見ることができる。それらが混じり合いながら流れていく快感が、この作家を特徴づけているのではないか。訳文からは、そのあたりの心地よさが伝わってこない。

 もっとも、もうひとつの見方ができるかもしれない。日本語版から英語版を振り返ると、後者には、その代わりとして、村上春樹文学の太々しい骨格が、厚い肉を削ぎ落とした形であからさまになっているのを発見する。

 とりわけ、それぞれに一個のストーリーを構成するだけの密度がある題材をいくつも投げ込み、それら全てをひっくくって、上位の物語につくりこんでいく手法は、日本語版ではおぼろげな姿で見える。しかし、かっちりとした文章の連なる英語版では、それがはっきり露出する。新たな驚きであり、作品の骨組みの壮大さに圧倒される思いがする。

 ただし、イマジネーションからイマジネーションへ自在に引き回されることから得られる快楽の部分がダメージを受けるので、これは読者の側から言えば、かなりつらいのである。

 作品の後半部分で、カーネル・サンダースと名乗る謎の親爺が、歓楽街の客引きとして登場する。定期便の運転手である星野青年が探索の使命を帯びる〈入り口の石〉のありかを、親爺は知っているという。しかし、それを教える前に、まず女の子を紹介しようと言い出す。

 日本語の原文は次のようになっている。

 「そうだ、まず入れ入れが大事なんだ。儀式みたいなもんだ。まずは入れ入れ。石のことはそのあとで話そう。ホシノちゃん、この子はきっと気に入ると思うね。うちの掛け値なしのナンバーワンだ。*おっぱいむちむち、肌はつるつる、腰はくねくね、あそこはぐしょぐしょ、ばりんばりんのセックス・マシンだ。*」(星印は引用者)

 この後現われる「セックス・マシン」は、哲学科の女子学生で、フェラチオをしながら、フランスの哲学者アンリ・ベルグソンからの引用を口ずさむ。彼女に『物質と記憶』を読んだことがあるかと尋ねられて、元自衛官の星野青年は、「陸自特殊車両操作教本」ならみっちり読まされたことを、ふと思い出すという次第である。

 全編のなかでも、屈指の好場面だと思うが、どう英訳されているであろうか。先のかぎカッコのなかの、ふたつの * 印の間だけを次に引用してみよう。

 Luscious breasts, skin like silk. A nice, curvy waist, hot and wet right where you like it, a regular sex machine.

 お行儀の良い言葉遣いであり、文章である。カーネル・サンダースの、絶妙のセールス・トークが、身じろぎしない訳に収められて、「むちむち」とベルグソンとの距離感が消えていく。結果、飛翔の快さが減退するのである。普通へ近づき、そのために、欲求不満が残る。

 翻訳者のフィリップ・ガブリエルは、アリゾナ大で日本文学を教える研究者であり、翻訳者としては、他にも、大江健三郎、黒井千次、あるいは島尾敏雄などを手がけている。

 文芸・メディア批評サイトの『クリティーク』で、マヤ・マースキーのインタビューに答えて、自らの翻訳作法を語ったことがある。そのなかに、翻訳を山を登るのに比べるくだりがある。

 「頂上を見上げると、目がくらんでやめたくなる。そこで、とくに長い本の場合は、自分の前にある小道だけを見つめつづけて、一歩ずつ進むのがベストだ」

 こうした地道な積み重ねから、手堅い翻訳が生まれてくるのであろう。

 村上春樹作品が英語に訳されるようになって二十年近くが経つが、その間の主要な翻訳者として三人を数えることができる。アルフレッド・バーンボーム、ジェイ・ルービン、そしてフィリップ・ガブリエル。ルービンはハーヴァード大で日本文学の教鞭をとっているし、バーンボームは日本育ちらしい。いずれ劣らぬ日本通であり、日本語の使い手と思われる。

 なかで、英語圏の批評家や文芸誌編集者の間で、ひときわ評価の高いのは、作家が翻訳デビューしてまもなくの『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』『ダンス・ダンス・ダンス』などを手がけたバーンボームである。

 これについては、季刊文芸誌『ザ・スリーペニー・レヴュー』の編集人ウェンディ・レッサーが、2002年、アメリカの大学教職員向け週刊情報紙『ザ・クロニクル・オヴ・ハイア・エジュケーション』に書いた、「翻訳の神秘」という興味深い文章がある。

 彼女は、はじめて、この作家の作品を読んで、作家よりも翻訳者のバーンボームのほうに、より惹かれたという。新旧の英語を使い分けていること、若者たちの言葉遣いをみごとに表現していること、あるいは「日本人の作家を、外国人としての魅力をなんら損なうことなしに、これほどみごとにアメリカっぽく感じさせたこと」などの理由からである。

 英語のなかに、異文化の要素を平気で投げ込んでしまうバーンボームの手口は、村上春樹その人のものでもあるにちがいない。

 レッサーは、バーンボームを際立たせるために、訳文の比較をしている。取り上げるのは、彼が訳した短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」と、ルービンの手になる長編『ねじまき鳥クロニクル』である。この短編は、若干表現を変えて、長編のほうの冒頭部分に置かれている。(なお、バーンボーム訳は、英語版オリジナルの短編選集 The Elephant Vanishes に収録されている。この短編集は三月末に、逆輸入日本語版が『象の消滅』として発売された。)

 書き出しの部分で、男がスパゲティをゆで、FM 放送でロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を聴きながら、口笛を吹いている。指揮者のクラウディオ・アバドが、ロンドン交響楽団をその「音楽的ピーク」にもちあげようとするところで電話がかかる、というくだりである。

 バーンボームは、この部分を英訳するのに、泥棒かささぎには La Gazza Ladra とイタリア語の原題名を当てた。また、「音楽的ピーク」にも crescendo とイタリア風を持ち込んで、次のように突き放したのである。……Claudio Abbado and the London Symphony Orchestra are coming to a crescendo. 一方のルービン訳は、泥棒カササギが The Thieving Magpie だし、「音楽的ピーク」も musical climax と素直な英語になっている。こんな風に。……Claudio Abbado was bringing the London Symphony to its musical climax.

 上記の英文を比べると、バーンボームの訳は明らかに、性的な匂いをふりまいている。

 言語を道具にして意識を掻きまわすバーンボームに対して、ひたすらグッド・イングリッシュの使い手であるルービンと、ガブリエル。そして最近は、ルービンとガブリエルが村上春樹の(とくにフィクションの)翻訳を担当するケースが多くなった。

 先のレッサーの短い文章には、「マイ・バーンボーム」こそ、この作家の世界を伝達するのに最適の翻訳者であるにもかかわらず、なぜ交代してしまったのか、という思いが込められている。

 その答えの一端が、『海辺のカフカ』の英訳本に見出せるのではないか。

 作家は英訳のなかで、一見華やかな意識の冒険を内側から支える、強靱な躯体をはっきり見せているのである。あるときもてはやされて、移り行く時代に押し流され、そして忘れられることをよしとしない。

 日本では、作家も作品も使い果たされるままになりがちであり、それをとどめる手立ても、あまりない。しかし、ストラクチュアの堅固な作家であると、国際的な評価を受ければ、日本の呪縛から外れる。アメリカっぽい日本の作家という観念からも。

 英訳本のカヴァー・ジャケットには、半袖から逞しい腕を突き出させた、精悍な表情の著者近影がある。これは、慎重に選択されたショットに思える。

[2005.5.2.]

初出=en-taxi 09号(扶桑社)

書籍データ

 Kafka On The Shore

Kafka On The Shore
Haruki Murakami(著)
Philip Gabriel(訳)
Alfred a Knopf
$25.95
2005年1月

海辺のカフカ (上) 海辺のカフカ (下)

『海辺のカフカ』上・下
村上春樹(著)
新潮文庫
各740円(税込)
2005年2月28日初版


「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

『象の消滅』
村上春樹(著)
新潮社
1,365円(税込)
2005年3月31日初版
↑表紙のグラフィックをクリックしていただくとそれぞれをアマゾンでご購入いただけます


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