★ベストセラー小説の泣き方・泣かせ方

ポイント1 常套句で泣かせる

 人を笑わせるのは泣かせるのより十倍も二十倍もむずかしいと言われる。この本意は、「笑わせ」がえらいということではない。まず「泣かせ」をマスターしないことには「笑わせ」には届かないということである。人の心を動かすための基本中の基本、それが「泣かせ」ということになる。

 泣かせ方をおぼえれば、とりあえず人の心をぎゅっとつかめる。そのための最良の手本となるのが、作家たちの文章づくりである。

 ティッシュの箱を抱えたり、タオルを首に巻いたり、泣きのスタイルは人それぞれだと思うけれど、思う存分に泣かせてくれる作家はそうそういるものではない。そのなかでピカイチは、浅田次郎である。

 とくに、現実にはありえない、奇妙なシチュエーションを設定しながら、まさに「満都の紅涙を絞る」泣きのオンパレードに導く短編の数々にこそ、この泣かせ作家の真骨頂がある。

 出世作『鉄道員』は、直木賞を受け、映画化もされて大ヒットになった作品である。それだけに、どのページを開いても、泣かせどころに事欠かない。なかでも、とくに目を引くのは、次の箇所ではないか。

 乙松は箸を置いて、膝を揃えた。
 「おっちゃん、幸せだ。好き勝手なことばっかして、あげくに子供もおっかあも死がせて。だのにみんなして、良くしてくれるしょ。ほんとに幸せもだべや」
 「ほんとに?」
 「ああほんとだとも。もういつ死んだっていいぐらいだべさ」

 間もなく廃線になるローカル線の駅長、乙松の前に、生後2カ月で死んだはずの娘、ゆっこが姿を現わし、成長していく姿をさまざまに見せてくれる。先に引用した部分は、ほんとうは死んでしまって、いないはずの娘との、心打たれる「逢瀬」を描く、ほとんど最後のくだりである。

 父親の乙松が「幸せだ」という常套句を連発しているのが目を引く。おまけにもうひとつ、別の常套句「いつ死んだって」というおまけまでついているサービスぶりである。

 ふつうは、月並みな常套句は感動を殺ぎ、しらけさせるから極力使わないようにと、文章読本などには書かれている。それはちがう。いけないのは濫用である。我慢して我慢して、ここぞというところで決める。それが必中の常套句である。いかに効果的かを、先のやりとりが教えてくれる。

 この短編の文章量は、文庫版で37ページ分である。なかで「幸せだ」表現は、31ページ目にやっと登場する。そこまで「幸せ」を口にするのをぐっとこらえ、長い長い助走の果てに、思い切り飛ぶようにして投げ出した。この後、乙松は雪のプラットホームに倒れ、死んでいく。まさにこれは、土壇場の「幸せだ」に他ならない。

 さらに『鉄道員』の場合、駅長の言葉がいかにも朴訥な北海道弁なので、いっそう胸を打たれてしまい、落涙滂沱状態にならないわけにはいかないというオマケ付きである。

 「世界のだれよりも」「もう一度生まれ変わっても」「たとえ別れても」などなど、その場その場で使いたくなる常套句は、いくつも浮かぶにちがいない。読み手を気持良く泣かせるには、その使用をいかに遅らせるかが鍵である。こらえた末に、いたたまれずに投げつければ、必殺の殺し文句、決めぜりふになること請け合いである。

ポイント2「余白」で泣かせる

 描写しないことも描写のうちである。書かないことによって、書く以上の効果を生み出す。言って見れば、書かないままに放置されている余白が、泣きを誘い出し、涙を呼び出す役割をしてくれる。

 日本には古来、「言わぬが花」という伝統的な美学がある。言わないことに「花」がある。はっきりと言ってしまわないことで、それだけ趣が深まるという考え方である。

 これを西洋流の表現では、「沈黙は金、雄弁は銀」ということになるであろう。雄弁に全てを語るよりは、黙っていることに、より輝かしい価値が秘められていると考える。

 とりわけ、泣くという行為の本来はプライベートなもので、悲しみは、心に秘すことでさらに増し、深みのあるものになっていく。言わない「花」が美しく咲く。したがって、文章の間に意図的につくる「沈黙」、つまり余白が威力を発揮するはずである。

 これも評判になった川上弘美の『センセイの鞄』は、夢と現の間を往復するような、不思議な魅力に満ちた小説で、ここでは、余白効果が存分に発揮されている。

 30代の末で独身の月子さんが、駅前の居酒屋でひとりの老人に出会う。それがかつて高校で国語を教えられたセンセイだ、というところから、この物語ははじまる。ふたりの間に行き来する微妙な恋心。不器用なやりとりを経て、遂にその晩がやってくる。

 ……センセイとわたしは肩を並べてヒヨドリを眺めた。ツキ子さんはいい子ですね。センセイが言った。センセイ、好き。わたしは答えた。ヒヨドリが、ギョー、ギョー、と鳴いた。

 遠いようなできごとだ。センセイと過ごした日々は、あわあわと、そして色濃く、流れた。センセイと再会してから、二年。センセイ言うところの「正式なおつきあい」を始めてからは、それだけの時間を過ごした。
 あのころから、まだ少ししかたっていないのに。

 ここには、センセイが死んだとははっきり書かれていない。しかし、センセイは死んだのである。文章のはしばしに、それは暗示されている。はっきり書かれていないだけに、いっそう悲しみが伝わってくる。

 死の場面を描かずに、余白にすることで、想像力が刺激される。その死について自由に想像をめぐらしながら、月子さんの身になって、こころゆくまで涙することもできる。雑念にまどわされないでいられるわけである。

 さらに、余白からは余韻が生まれ、悲しみがそれだけ長引く。いつまでも悲しんでいられる。

 また、段落と段落の間に一行空き、つまり文字通りの白い部分がつくってあることにも注目したい。そこには、センセイの死が書き込まれるはずなのだが、わざとそうしない。死んだことは書かないぞ、という強い意志さえ伝わってくるではないか。

 作家はさらに、先の引用部分につづけて、次のような描写によって、悲しみの念押しをする。

 センセイの鞄を、わたしは貰った。センセイが書き残しておいてくれたのである。
 息子さんという人はセンセイとはあまり似ていなかった。無言でわたしに向かって頭を下げた、そのときの体の角度が、センセイをちょっと思い出させた。
 「父春綱が生前にお世話になったそうで」と、息子さんはふかぶかと頭を下げたのだ。
 春綱というセンセイの名を聞いて、わたしは涙があふれそうになった。

 ここでも、「死」という生々しい表現を使うことは、慎重に避けている。これだけ徹底した余白攻撃をされたのでは、鞄を形見にもらった月子さんでなくても、「涙があふれそうに」なってくるではないか。

ポイント3「描写」で泣かせる

 悲しい気持ちは、「悲しい」という言葉からはまず生まれない。生まれるとしても、それは通り一遍の感情に過ぎない。同様に、「寂しい」思いに被われたいと切に願うならば、「寂しい」と口にしてはいけない。

 もちろん、日記など、自分自身が相手であれば、何度でも、悲しいや寂しいを連発して差し支えないであろう。自分のなかに根づいている感情を勝手にたきつけて、昂進させればいいのだから。

 しかし、相手がある場合は、そうはいかない。悲しみや寂しさをコミュニケートしなければならない。伝達の必要がある。そのためになにかに託す。すると、感情がスムーズに伝わる。その媒介物が心に響くものであればあるほど、生々しい感情を運んでくれる。ありきたりの「悲しい」や「寂しい」ではびくともしなかった感情が火をつけられて、燃え上がる。

 そこで、景色や小物を使うといい。それらを丹念に描くことによって、悲しみの鮮度を一気に高められる。

 たとえば、ある人の死をめぐる悲しみを表現するのに、その人を象徴するモノを持ち出して、読み手の感情を刺激する。死者がかつて暮らした家や愛した風景を描くのもいい。死の直前に上っていった坂道、座ったベンチ、最後に顔をのぞかせた窓、縦走した山の尾根、などなど、どれもこれも、涙を呼ぶことのできる大道具、あるいは小道具に仕立てられる。

 これらのモノや情景が具体的であればあるほど、印象が鮮烈で、それだけに、悲しみの感情も瑞々しいものになる。

 重松清の連作短編集『その日のまえに』は、死に近づく人々のその運命の日の前と後とを描いたものだが、そのなかの一編「その日」に、若くして訪れる妻「和美」の死に直面した夫の「僕」の悲しみを、家族の歯ブラシに託して描く、感動的なシーンがある。

 風呂からあがって髪を乾かし、歯を磨いておこうと洗面台の棚に手を伸ばした。
 スタンドに立つ歯ブラシは三本。青が僕、黄緑が健哉、白が大輔。和美は入院前に、自分の赤いブラシを処分していた。
   (中略)
 ……たしか和美は歯ブラシをいつも買い置きしていたはずだ……と、洗面台の上の吊り戸棚を開けてみた。
 あった。
 四本──青と、黄緑と、白と、そして赤。
   (中略)
 透き通った赤い歯ブラシを、両手で包み込むように握った。その場に膝をついて、体を倒し、肘も床について、歯ブラシに祈りを捧げるような姿勢で、僕は泣いた。

 家族ひとりずつの色ちがいの歯ブラシが、洗面所の棚にマグカップやグラスに挿して置いてある風景ほど日常的なものも少ない。この光景は、だれもが思い浮かべられる。そこには家族が否応なく象徴されている。

 それだけに、歯ブラシの一本、つまり家族のひとりが欠けようとしている事実から、堪え難いほどの悲しみを誘い出せるのである。

 この技法も、先の「余白」とはまたちがう意味で、日本人には馴染深く、その心情にフィットするものがある。

 というのは、八百万信仰が示すように、日本人は万物に神が宿り、全てのものに魂があるという考え方を容易に受け容れる。したがって、形見の品や思い出の風景などと、人間を結びつけて考えるのに慣れている。

 因縁という言い方があるように、いかにも日本的な悲しみの源である。それだけに、だれに対しても通じる「泣かせ方」になる。

 先の作品の夫などは、おかげで「床に倒れこみ、手足をばたつかせて、僕は家族の誰よりも幼く涙を流したのだった」と、身も世もなく泣きぬれ、悲しみの極致に達してしまう。

ポイント4「心残り」で泣かせる

 笑いは心を放つけれど、涙は心を閉じこめ、残す。悲しい出来事は、それに直面した人のなかに、固い塊を残していく。それが心残りである。ああすればよかった、どうしてこうしてあげなかったのかと、自分を責める。

 人は、心残りラッシュに耐え切れずに、思い起こしては泣き、人の前でグチのように並べ立てて、相手を当惑させたりもする。

 リリー・フランキーの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』は、北九州に育ったボクの回想記のかたちをとっている。オカン(母親)の死を巡る最終部分で一気に盛り上がる。その際の「エンジン」となって大活躍するのが、心残りなのである。

 「あれから、桜の花は何度か咲いては散っていき、また、東京に春が訪れた」と振った作家は、死んでいった母親に呼びかける。

 オカン。
 あれから、何年か経ったけど、いまでもボクは淋しいでたまらんよ。
 なにかっちゅうて、いつもオカンの姿を思い出しよる。

 と、予告するのももどかしく、さっそくに心残りのオンパレードがはじまるのである。

 飯食いに行ってうまいもん食うたり、新しい店を見つけるたんびに思いよる。
 こんな食わしてやりたかったねえ、ここの焼鳥はオカン好きやろうねぇち、なんかいったら、いっつも、そげ思いよる。
 京都に行って素敵なお店に入ったら、……オカンくらいの年のばあさんが友達と旅行しよるとこやら見かけたら……東京来てから、生活費やら渡す時も、もっと気持ちいい顔で、もっとようけあげればよかった。
   (中略)
 今やったら、もっとちゃんといろんな話ができて、色んなもん食わせてやって、行きたいとこ旅行させてやれると思うのに、なんでその時、せんやったやろうか。

 これでもか、これでもかと、心残りと後悔の包囲攻撃に遭っているようなものである。

 こうして繰り言を次々に聞かされたら、いい加減うんざりするかというと、そうはならない。気がついてみると、一緒に泣いている。そして、心のなかでつぶやいてしまう。「もっともっと言っていいんだよ。気が晴れるまでぶちまけて、すっきりしたらいい」と。

 これは、同じようにして思いを残す経験をほとんどの人が持っているためである。近親者の死、恋人との別れ、突然の悲劇をもたらした大災害などなど、生きているかぎり、だれでも、心残りの種をかならず抱え込んでいる。

 人は同じ不幸を背負った他人に、優しい。思い切り寛大になれる。相手が自分に対しても寛大であることを勝手に期待もしている。同病は相憐れむ。同じ病のなかに心地よく沈み込む。心残りを吐露されれば、さらに深みにはまる。それがうれしい。「言って、言って、もっと言って」と心のうちでつぶやきながら、手を携えて泣いている。

 ただし、心残りを連発するのはいいとして、言いっぱなし、書きっぱなしにしないことが、コツである。『東京タワー』の作家は、この点でも見事で、ほとんど二ページに及ぶ、怒濤の心残りを、最後の一行で、「オカンの毎日は楽しかったんやろうか?」と、冷静に締めている。

 心残りを垂れ流したままにはせず、ふと我れに返り、沈着さを取り戻すことで、けじめをつける。おかげで、それまでの心残りの数々が、読み手のなかに鮮明な印象として残るという、絶大な効果がある。

ポイント5「時間」で泣かせる

 人の心は、時間にとりわけ弱い。思い出して泣くのは、過ぎ去った時間に心を揺さぶられるからである。昔と今とを比べては、また涙ぐんでしまう。まるで、時間のゆりかごにもてあそばれているようなものである。

 わずかな揺れでも、つい感情的になってしまう。そこで、時間のゆりかごを意図して、激しく揺さぶることによって、悲しみの感情にいっそう強く訴えることができる。

 まだやってきていない未来に動揺することは少ない。思い出が詰まっている過去と、いま身を置いている現在とが、大きな悲しみの源泉になる。過去から現在へ、現在から過去へと、あるいは過去の別な時間へとゆすぶり、揺り戻す。この繰り返しに、人は耐え切れずに、しばしばくずおれる。

 片山恭一の『世界の中心で、愛を叫ぶ』は、すでに大人の男になった「ぼく」が、中学生のときに知り合ったアキの死を追憶するストーリーで、全編、時間の揺れにさらされている。今と昔の間の大揺れのなかに、ストーリーが展開する。

 そのクライマックスは、アキの死の瞬間にやってくる。

 「お別れね」と彼女は言った。「でも、悲しまないでね」
   (中略)
 アキが少しずつ遠くなっていくようだった。彼女の声も、彼女の顔の表情も、ぼくが握っている手も。
 「あの夏の日を覚えてる?」風が吹いて、消えかけた炭が明るむように彼女は言った。「小さな舟で海を漂って……」
 「覚えてるよ」
 アキは口のなかで何か言いかけたけれど、ぼくにはもう聞き取れなかった。行ってしまうのだ、と思った。切り立ったガラスのような思い出だけを残して、彼女は行ってしまうのだ。
 頭のなかいっぱいに、真っ青な夏の海が広がった。……そしてアキと二人で、海のきらめきになってしまいたかった。

         8

 霧のなかから、船着場の桟橋が浮かび上がった。波が静かに海辺の小石を洗う音が聞こえていた。裏山で野鳥が鳴いていた。それも一種類ではなく、幾つかの種類がいるようだった。
 「何時?」アキはベッドの上からたずねた。

 長い引用になったけれど、これにはワケがある。ここには、三つの時間が入り込んでいて、それぞれに心を揺さぶるのである。

 「ぼく」がこれを書いている現在、アキが死の床にあった過去、そしてもうひとつ、永遠の別れを目前にして、アキが口にした「夏の日」という、もうひとつ向こうにある過去。

 これら三つの間を行きつ戻りつすることによって、悲しみの感情を高めていく。細かく読むと、死を目前にしたアキも、夏の日をいっぱいに浴びる、元気だったころの彼女も、ベッドのなかにいる。あのとき輝いていたアキは、いまは死んでいこうとしている。この激しい時間の揺さぶりに、だれが踏みとどまれるであろうか。

 さらに、この箇所は七章から八章への章の変わり目でもある。そんなことはかまわないというみたいに時間から時間へ飛翔する作家からは、ある種の強い決意が伝わってくる。

 過去から、もっと遠い過去へと、空白の行の間を、時間が飛んでいる。もちろん、そこになにも書かれないことによって、読み手は、いっそう深い悲しみを味わうのである。

ポイント6「予感」で泣かせる

 笑いは突然にやってくる。しかし、涙には、前提となる思い、つまり予感がたいていある。心の底のほうにもやもやとただよっているものが、あるとき浮上してくる。こうして人はさめざめと、あるいはわんわんと泣く。

 もちろん、笑いにも予感できるものがあるけれど、あまり評価されない。わかっていて笑う駄洒落の類いなど、笑ってもらえばいいほうで、かえってバカにされたりする。

 いかにさりげなく、それでいてはっきり印象づけるかたちで、予感を植えつけるかは、人の悲しみを描く小説を書く作家たちの腕の見せ所と言えるであろう。

 「予感小説」とでも呼びたくなるような、予感を核として生み出されている、最近の作品がある。小川洋子の『博士の愛した数式』である。

 ハードカバーで二五〇ページあまりの長編の主調は、最初の九ページ目で、はやくも明らかになる。「博士」がかつて自動車事故に遭い、その後、どんな記憶も八十分しかもたないことがわかるのである。

 こう告げられた読み手は、短過ぎる記憶がいったいどうなるのか、という思いにとらわれないわけにはいかない。本文の三分の二を過ぎたあたりで、そっと予感が挿入される。限られた記憶という不幸の向こうに突き抜ける、更なる不幸の予感を、「博士」の世話をしてきた家政婦が抱くところである。

 (用事を済ませて)帰ってみると、博士が元に戻っていた。私を知らない博士になっていた。私は腕時計を見た。出かけてから過ぎた時間は一時間と十分だった。
 博士の八十分が狂ったことはかつて一度もなかった。彼の脳がカウントする八十分は、時計より厳密であり、冷酷であった。私は腕時計を振り、ちゃんと動いているかどうか耳を押し当てた。

 さらに、家政婦に対して、「博士」は、初対面の人にかならず持ち出す質問をして、不吉な予感に追い討ちをかける。つまり「君の、出生時の体重はいくらかね」と訊くのである。

 この作品は、まるで八十分つまり一時間二十分という時間そのものが「主役」であるかのように思える。この時間設定が崩れる予感が、博士の「崩壊」の予感と重なるのである。

 さらに、小説のラスト三分の一は、頭のなかにセットされた八十分のビデオテープが作動しなくなったような「博士」を見守る人々の、ある種さわやかな悲しみが淡々と描かれる。こうして予感が、小説全体を支える柱になっている。

 さて、ここまで、泣きのつぼの押し方を六つのポイントで述べてきた。これだけのハウ・トゥを体得すれば、どんなベストセラーも満喫することができるはずである。

 爽やかな涙もあるだろう。重い涙もあるにちがいない。どんな涙であるにしろ、どんどん流し、大いに泣いて、ベストセラー小説を、そしてこの短い人生を思う存分に楽しもうではないか。(文中敬称略)
2006.6.9.

書籍データ
表紙写真
『鉄道員』

著者=浅田次郎
集英社文庫
476円+税
2000年3月25日初版

本表紙
『センセイの鞄』

著者=川上弘美
文春文庫
533円+税
2004年9月10日初版

表紙写真
『その日のまえに』

著者=重松清
文藝春秋
1429円+税
2005年8月10日初版

表紙写真
『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』

著者=リリー・フランキー
扶桑社
1500円+税
2005年6月30日初版

表紙写真
『世界の中心で、愛を叫ぶ』

著者=片山恭一
小学館
1400円+税
2001年4月20日初版

表紙写真
『博士の愛した数式』

著者=小川洋子
新潮社
1500円+税
2003年8月30日初版


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