★『100年前に降った雨-貫井物語』

 5月の末だというのに、すでに梅雨がはじまったかのような、まとまりのない天候になっている。雨が降ったかと思えばやみ、やんだと思い込んで傘をしまいこめば、また降りはじめる。
 タクシーのなかでの、ごくあたりさわりのない会話。
 「いやですね、じめじめと」
 「もうはじまったようですね」
 「運転手さん、今年はどんな感じでしょうかね、梅雨は」
 「天気予報だと、今年はしっかり雨が降るらしいですよ」
 「そうですか、雨降りですか」
 どこか東北らしいアクセントの相手が、左折のハンドルを切ったうえで、一言。
 「でも、お客さん、雨が降らないと稲が育ちませんからね」
 それっきり、ふたりとも沈黙した。
 水の国に生まれ育って、ぼくたちの水への感情には決着がつかない。だから、最後は黙ってしまう。黙ったままいろいろ考える。水は厄介である。


「これは、水の物語です。」

 『100年前に降った雨-貫井物語』(ふゅーじょんぷろだくと発行。1200円+税)を読んだ。著者の野口由紀子さんは、20年前に、東京・多摩の地域雑誌『武蔵野から』を創刊した。
 野口さんの暮らす小金井市の南は貫井と呼ばれる。「土の中から湧く水は夏は冷たく冬は温かく感じられます。湧水に恵まれたこの地はいつからか、ぬくい=温井と呼ばれ『貫井』と名づけられるようになりました」
 そこにほっそりと流れる野川。湧き水が流れ込み、希少になった地下水を取り込み、雨水を集める。小さな川は、かつて武蔵野と呼ばれた辺りの記憶を、いまも運びつづけている。
 失われた水もある。呼び戻された水もある。なおも連綿と保たれつづける水も。この本は、野川とその周辺の水のすべてをかき集めようとする試みである。
 水の恵みを論じるのは易しい。水の扱いにくさは、日本人であればだれもが肌身に感じている。むずかしいのは、水の事実を集積することであり、努めてなお報われないことはなはだしい。人は、水を崇めはするけれど、あるいは崇めるが故に、その実体を知ろうとはしない。
 野川の水は、しかし、幸いにもこうして記録者を得た。この本には、界隈の水が溢れかえっている。著者は、水資源保護を声高に語ることはしない。水をないがしろにする連中を取り立てて糾弾するでもない。淡々と、水の流れに沿うように、川のあるがままを語りつづける。そして、横田眞一郎氏の撮り下ろしカラー写真が、発語することのない水を代弁してくれる。
 雨の日にページを開き、晴れ間を見つけたら久しぶりの川岸をたどる。そんな行為をそそのかす本である。★

地域雑誌『武蔵野から』の連絡先は、次の通りです。〒184-0004 東京都小金井市本町5-7-16 電話042-385-7025 ファクス042-387-0741 「武蔵野から」編集室)

(2001.5.31.)