★台北「落ち着いた大人のバー」にて
台北のタクシーの内部
過ぎていった夏の暑さは、なかなか忘れない。去年も今年も、東京は暑かった。まったくひどいものである。夏のはじめに旅した台北の酷暑が、あやうく記憶の隅に追いやられてしまいそうである。
「台北は暑いね」
「東京どう?」
「ぜーんぜん」
中正国際空港まで迎えに来てくれた人と、そんな会話を交わしたのが、ずっと昔のように思える。
もっとも、ぼくの日常は、暑さ寒さ、洋の東西、それらにはまるで関係ない。昼間はあっちこっちほっつき歩いているけれど、日が落ちてしまえば、酒場の椅子に座り込んで動こうとしない。
したがって、台北でもひそかに期するところがあった。羽田からの中華航空機のなかで、一夜漬けみたいに慌てて読んだガイドブックに、「落ち着いた大人のバー」とあるのを見逃さなかったのである。よし、ここへ行ってやろう。 台北最初の夜。右も左もわからない。でも、勝手知ったる他人の街、と思い込んでおけば、それでいい。気楽なものだ。はじめての地下鉄に乗り、あたりをつけて下車してみる。忠孝復興駅! なんとステキな駅名ではありませんか。東京ではけっしてありえない。
地上に出たら、通行人に向かって、バーのアドレスを書いておいた紙をかざす。相手が指差してなにか言う。言葉は、当然わからないが、指は見える。OK。路地に入って数分、瀟洒な外観の店の前に立った。簡単カンタン。
キールン(基隆)駅
我が故郷、東京の隣町みたいに親しみが湧いてくる。躊躇なくガラスのドアを押して入る。
と、黒い背広のお兄ちゃんがたちはだかって、何か言う。だけど、
"I don't speak Chinese."
相手はじろじろと、失礼な視線を投げてくる。そうか、よれよれのTシャツに、ぼろぼろのジーンズ・パンツというトーキョー・ファッションのままだったのがまずかったかな。しかし、これで引き返しては日本人のコケンにかかわる。(なに言ってんだか)
「ここはバーだろ。俺は客だよ、客。文句あるかよ」
と言うつもりだったが、ほんとうは気の弱いぼくの口をついて出たのは、丁寧な言葉遣いの英語。なんとか関門は突破できた。
カウンターには、他に客の姿はない。こういうときに座るところは、ただ一カ所しかない。バーテンダーがカクテルをつくる定位置の向かい側をゲットするのである。ミキシング用の大きなグラスやシェーカー、あるいは水道の蛇口が目印になる。
さて、無表情な女性バーテンダーに正対すると、一杯目の定番になっているロング・ドリンクの名が素直に口をついて出た。
"Gin rickey."
ライムの実の半分をハイボール・グラスに沈め、氷を放り込んで、ジンとクラブ・ソーダで満たす。甘みのない爽やかな味わいは、昼の暑さを吹き飛ばしてくれるであろう。
ところが、バーテンダーは怪訝そうな顔をし、メニューを差し出すではないか。こんなスタンダードなカクテルを知らないなんて信じられない。
もう一度、"Gin rickey."
RとLの発音を間違えていないよな。彼女は黙って首を振る。仕方なくジン・ライムにしながら、惨めな思いが全身を蝕む。見知らぬ街に門前払いされたみたいな気持ちになる。あの黒い背広が、背後をすっと通り過ぎるのがわかる。
台北の夜は、いたずらに更けていく。 ★
(2000.11.20)