★酒ありて、人ありて(第4回)ゴッホ、ドガ、ロートレック…… |
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水島新司の野球マンガ「あぶさん」ではなく、村松友視の傑作エッセー「アブサン物語」でもなく、スイス生まれのリキュール、アブサンである。アルコール度数が最低でも60%を超える。
そこで、条件反射のように浮かんでくるのが「アブサンの中毒で身を滅ぼした」アーティストたちの名である。定番はヴェルレーヌ、ロートレック、ドガ、ゴッホあたりか。ゴッホが自分で右の耳を切り落とした、有名な事件があるが、これもアブサン中毒のせいにされがちである。
アブサンの「毒性」が騒がれ出したのは19世紀のことである。主原料のニガヨモギの香味成分、ツヨンが幻覚などの向精神作用を起こすと。麻薬の一種と烙印を押された。ツヨンと中毒の因果関係は、じつは証明されていない。安価なアブサンの流行に危機感をいだいたワイン業者らが故意に流したデマからだったとも言われる。
20世紀になると、各国で販売禁止になっている。それから数十年、禁止措置は解かれないまま、禁断の酒として、1世紀近くも放置された。ふたたびアブサンが世の中に登場するのは、ごく最近、21世紀になってからのことである。
アブサンの冷遇は足かけ3世紀に及んだことになる。ひどいものである。60年代カウンターカルチャー関係の書籍を揃えた、下北沢の古本カフェバー「気流舎」では、やっと自由の身になったアブサンを数種類用意している。ビールに次ぐ人気メニューに。
年若い店主の礼賛の弁。「アブサンは、文化と深く関わっている。かつてアートに携わる人々が、カフェでインスピレーションを得る基になった。そこで、新しいカフェ文化の創造への思いをこめた。それに、酔いが人によって様々なのが、他の酒とちがう。ぼくはフワフワした気分になるが、まったり感があるという人もいるし。意識の拡張ができるのがすばらしい」
たとえば、氷を入れたグラスに薄グリーンのアブサンを45ミリリットル注ぐ。グラスの上に、穴のあいたアブサン専用スプーンで、橋をかける。橋に角砂糖を置き、上から水を注ぐ。砂糖が溶け、水が落ちて、水割りになる。と、アブサンは白濁し、甘やかな香りを放つ。一口含めば、苦味が巡る。
強烈なアブサンを馴らして、飲みやすく御しやすくするための工夫のひとつであリ、儀式でもある。
かつて、パリの男たちの多くが、仕事を終えるとアブサンを飲んだという。薄グリーンの液体が街に氾濫する。だから、午後5時を称して「緑の時刻」と呼んだとか。
★[2008.5.19.]
初出『ランティエ』誌 2008.5.