★酒ありて、人ありて(第1回)ジャック・レモン |
ニューヨークの大手保険企業の若手社員と、同じ会社のエレベーター係。これが映画『アパートの鍵貸します』での、ジャック・レモンとシャーリー・マクレーン。彼は彼女に恋をするけれど、彼女は上司の不倫相手と判明する。絶望した彼が、バーのカウンターで杯を重ねるのが、マーティニ。
すでに7杯目である。カウンターの上に、ピックに刺したオリーブの実の塩漬けが、自転車のスボークのように円を描いて並ぶ。一杯に付いてくるオリーブはふつう一個で、この場合は7つ見えるから7杯と考えていい。
相当に飲み過ぎている。この映画がつくられた1960年ごろ、アメリカのビジネスマンはよく、ランチのときでもマーティニを飲んだが、それでも3杯が精々。それほど強力。
もっとも、多くの日本人は食前の1杯だけで、午後の仕事ができなくなるであろう。日本で食前酒の習慣が生まれないのは、単にアルコールが段違いに弱いからではないか。
ただし、映画のなかのジャック・レモンの場合、マーティニの過剰摂取よりも問題なのは、オリーブを子供のままごとみたいに散らかしていることで、そこに心に負った傷の深さが映されている。
マーティニは、主材料のジンに、香りづけしたワインの一種、ベルモットを合わせてつくるカクテルである。ガーニッシュ(付け合わせ)として、オリーブの実が付く。バリエーションはいくらでもあるが、この「三位一体」の基本が明確である。
したがって、オリーブは「聖なる」三分の一であり、これを並べてもてあそぶなどもってのほか。
マーティニを味わうときの楽しみのひとつは、どの段階でオリーブを口にするかの決断である。初めでもなく終わりでもなく、中間のどこかにある「オリーブ・ポイント」。さらに、一杯目と二杯目はちがい、どの店で飲んでいるかでも異なる。
アメリカのマーティニ好きに見られるのは、オリーブの個数へのこだわりで、注文するときに、ほしいオリーブが二つ以上だと、数を指定する。
こうして、神経を使うはずのオリーブをずさんに扱うところを見ると、この男は相当に参っているなと考えないわけにいかないのである。マーティニの三要素をばらばらにしてはばからないほどに、精神が解体してしまっている。
ところでジャック・レモンは、この映画の2年後に、『酒とバラの日々』でリー・レミックと共演し、アルコール依存症の夫婦を演じることになる。しかし極め付けは、彼自身が依存症と判明することで、晩年になって、テレビのインタビュー番組“Inside the Actors Studio”で、自ら告白している。
飲み残しのマーティニを手早くすすりこむ、この名優の何気ない演技に、虚実の被膜のあまりの薄さを思ってしまう
★[2008.2.18.]
初出『ランティエ』誌 2008.2.