★文士たちが愛した東京の酒場

消えた「でんちゅう」■

 九月の半ばに、「閉店のお知らせ」の葉書を受け取った。
 「永らくご愛顧を頂いた『でんちゅう』が10月6日をもちまして、閉店する運びとなりました。これまでの皆様のご贔屓に御礼申し上げます。閉店まで残り僅かな日数でございますが、ご来店下さいますようお願いいたします」
 ショッキングな知らせであった。しかし、閉店までに一度行かなくては、と思いつつ、結局行かなかった。
 この店は、銀座三丁目の路地の奥にある酒場で、終戦直後に、外堀の堀端に屋台状態で営業していたのが発端であるという。そのころ、店の真ん中に、都電の架線用の鉄柱がどんと立ち上がっていたところから、でんちゅう、つまり電柱という名があるとのことであった。
 昭和28年に読売新聞に入社し、十年間、外報部の記者をしていた大岡信のエッセーに、こんなくだりがある。
 「私が入社したころは、社の前には、いつも濁った水がよどんでいる大きな掘割があり、数寄屋橋のたもとから一丁目のはずれ近くまで、岸辺には、人が十人も入ればはみ出してしまう小屋がけの飲み屋が並び、夕暮れから未明まで、新聞社の連中その他でいっぱいだった。朝刊最終版のしめきりがすみ、そろそろ築地の方角のそれが明るみはじめるころ、『でんちう』や『おばこ』で、串にした肉の煮込みの皿を前に飲む酒は格別だった。
 やがて、掘割をつぶしてその上にフードセンターができ、縄のれんの店は散り散りになって、それぞれ銀座界隈に小ぎれいな店を持ったようだ。一つの時代が終ったという感じが、いやおうなしにあった」
 ぼくなどが、「銀座界隈」のほうの店の白木のカウンターに、あるきっかけでときどき座らせてもらうになったのは、もちろんずっと後のことである。それでも、読売はじめかつて数寄屋橋界隈に社屋のあった新聞社関係の客が断然多かった。
 暮れも押しつまったころに、常連の客たちが一年分の勘定をまとめて払うのを目撃したことがある。この店にたむろする人々の年輪と、その人たちとおかみさんとの間に築かれているらしい深い信頼関係に、羨望の念を抱いたものである。このおかみさんはいまから数年前に亡くなり、その後は、関わりのあるらしい別の女性の手で、月に一週間ぐらいずつ不定期に店を開けることがつづいていた。
 客たちはたいてい連れだって現れ、地酒や珍味を持参しては相客にふるまう者もいた。よくしゃべり、よく飲んで飽きることがないようであった。正面の冷蔵庫の上には、あの世に旅立ったおかみさんの遺影が置かれていた。ぼくのような、いわば「第三者」も暖かい気分のおすそわけにあずかることができた。
 「でんちゅう」の静かな閉店は、先の詩人の言葉を借りれば、やはり「一つの時代」の終わりのように思う。酒場にたむろするのが当たり前だった時代の最後の最後である。ぼくのような新参者がその幕切れの瞬間に顔を出すことは、はばかられる。これが、せっかくの葉書を無視して、行かなかった言い訳になっている。
 これから書こうとしている「文士たちに愛された東京の酒場」も、たむろする場がばらけていくとともに、人もまた散り散りばらばらになり、酒の場が変質する時代の趨勢を語るものに他ならない。

たまる場としての酒場■

 吉田健一は、ロンドンに19世紀からあるという、文士のたまり場「カフェ・ローヤル」について、こういう場を求めて集まってくるのは、「その職業の性質から自分の住居が仕事場になっている為に気晴しに外に出ることが必要であるからではないかと思われる」と書いている。
 もっともこれはロンドンのことで、東京となるとちがうと、作家は自身の経験から物語っている。彼が言うのは主に、先の大戦がはじまって統制経済になり酒が思うように手に入らなくなる前のことだが、連れだって延々と飲むことを繰り返している。午後にはじまって翌朝早く「豆腐屋の喇叭」(昔は朝方こうして豆腐を引き売りした。)が鳴るころまでも。
 「我々がそんなに飲み続けたのはカフェ・ローヤルの文人達と少し違って議論をする為で、それで飲むというのは酒を飲むと頭の回転が早くなるとともに耐久力が生じて素面では面倒臭くて言えないことまで並べ立てられるからだった」という理由づけをしている。
 議論というほどにこみいっていなくても、その頃の人たちは、たむろしてはおしゃべりをじつに長いことしつづけたようである。荷風の日記にも、酒の飲めない荷風が毎夜、仲間と銀座の喫茶店で落ち合い、服部時計店(現在の和光)の時計が午前0時を打つまで話し込む様子が描かれている。
 そのころの銀座は、カフェ全盛期であった。「タイガー」「クロネコ」など、売れっ子の女給のサービスで客を集めた。作家がたむろし、広津和郎の名作『女給』は、そのなかから生まれた。チップが収入の全てだった彼女たちの「伝統」は、戦後の銀座を彩るホステスへ引き継がれていく。
 酒場でも喫茶店でも、そういう場には、たいていしっかり者でわけしりのおかみさん(ママ、マダムと呼称が変わっても同じである)がいて、それぞれの人柄で場を支えていた。この伝統は、戦後の銀座や新宿で、文学者や出版関係者がよく出入りする酒場にも受け継がれた。
 酒場の主がいかに大切に思われていたかは、常盤新平の次ぎのような描写にも表れている。
 「きららのママは、私にとっては、よくできた、しかしけむたい妹のような存在だった。ここへ来ると、なんだか修道院に呑んでいるみたいだと悪態をついたことがある。けれども、そういう雰囲気も悪くはなかった。
 深夜、電車がなくなって、きららを訪れると、ママが酔っていて、店をはじめたころの苦労話を問わず語りに話していることがあった。それがしみじみとしていて、酒がいっそうおいしくなるのだった」
 「きらら」は、10年あまり前まで銀座・並木通りにあったバーである。作家たちは、このような場で同業者と付き合いはじめ、あるいは編集者を知っていった。
 この作家は、しばらく無沙汰をしているうちに閉店することになるのを知って、出かけていき、たまっている勘定を払いたいと言うと、ママから「忘れました」との答えが返ってきたという。
 吉行淳之介が、銀座の、いまはやはりなくなっている別の酒場について言っていることだが、「人生意気に感じるマダムがおり、女たちにも自分の金で飲む客を大切にする気風が残っていた」ということなのであろう。

おっかさんと客のS&Mシーン■

 長く文学者に愛された酒場のなかで、ずっと残っている店に、銀座五丁目の「ルパン」(中央区銀座5-5-11 TEL 03-3571-0750)がある。この店にある、背広に軍靴をはいた太宰治の有名な写真は、写真家・林忠彦が店内で撮影したものである。
 戦後、酒が不足しているころに、我慢できずに、酒まがいのメチル・アルコールを飲んで死亡する事件がよくあったが、作家仲間では武田麟太郎が犠牲になった。彼の死を知って、坂口安吾は、ウィスキーは「ルパン」でしか飲まないことにしていたという。
 かつて銀座一の美人と評判だったというママがしばらく前まで仕切っていた店には、昭和3年の創業以来、じつにさまざまな人たちが出入りしている。ママの思い出として、坂口はゴールデンフィズをよく飲む他人付き合いのいい人物であり、ぬるいぬるい水割りを注文するのが吉田健一で、野坂昭如はカウンターの隅の席で本ばかり読んでいた、などがある。
 戦後、「カルチェラタン風のムードが早く戻ってきた」(吉行淳之介)という新宿には、銀座に比べると、ずっとアップテンポなたむろの仕方、群れ方がつくられていく。
 その気分をみごとにとらえたのが、漫画家・滝田ゆうである。昭和40年代の後半に、小説誌に連載した『泥鰌庵閑話』に、いかにも何気なさそうに初登場した新宿ゴールデン街入口のアーチの絵には、「その夜もわたしは新宿にいた‥‥」という吹き出しが付いている。「新宿流し唄」と題した、その一編は、マレンコフのニックネームで知られる、実在のギター流しの物語であった。
 場所は、ゴールデン街のとあるバー。この酒場は、同連載にその後二度、三度と顔を出す。そのうちに、カウンターに突っ伏して眠る「酒乱のオカベ」や、「キンコロカンキカンコンキンコ」と意味不明の言葉をつぶやきつつ入ってくる謎の人物が登場してくる。前者が長部日出雄、後者は田中小実昌ということになる。
 カウンターのなかでは、女がひとり、身体の前で腕を組み、始終怒鳴っている。「お前さんに飲ませる酒なんかないっ」「バカッけェれっ!!」「なぬ? 銀座ァ? バカッねぼけんじゃないっ」「死ねっ バカッ」などなど。
 気づいてみれば、店内は怒号と歌声が乱れ飛ぶ狂騒の巷と化していくのである。これは、作家や編集者の間であまりにも有名な、ゴールデン街のバー「まえだ」の、ほとんど実況中継であった。
 おそろしい「おっかさん」と、おとなしくその一喝を受けている客たちというS&Mシーンは、たむろして語り合い、群れて親密度を増していく関係が、酒の勢いとともに増幅拡大されてたどりつく極致である。そこには、日本における酒場の到達地点のひとつがある。
 「おっかさん」も滝田ゆうも、いまは亡い。この連載漫画の「話がすすむにしたがって滝田さんの飲みかたが荒れていく」と評した嵐山光三郎は、「まえだ」での飲み仲間であった。「おそらく滝田さんは、この作品を書くために飲みにいき、泥酔をくりかえし、つぎは自分が描く作品に刺激されて、また飲んだのではないか」とも、書いている。
 田中小実昌も、どこか「あの世」に転居したらしい。かくて、頂点を極めた興奮は冷めていく。もっとも、ゴールデン街には、冒険小説フリークである内藤陳の「深夜+1(プラスワン)」(新宿区歌舞伎町1-8-2 TEL 03-3209-7872)をはじめ、独特の雰囲気の酒場たちが、いまも健在である。

優れたユーザを目指す■

 平成元年に出た『東京文学味散歩』(主婦の友社編)のなかで、「若手作家たちの飲り方」というコラムに、次ぎのように記されている。
 「時代は明らかに変わったようで、40代以上の作家たちがやっていたドロ臭い飲み方はまず見かけなくなった。‥‥若手作家たちはきれいな店を好む。ゴールデン街で見かけるのは高橋三千綱、立松和平くらいで、青山、六本木の方に人気がある。それだけ健康的なのかもしれない。山田詠美、山川健一、村上龍など日に焼けて真っ黒。たいがいはバーボンの水割りをやっている。グイグイとはやらない。静かに飲むスタイル」
 もっとも、「健康的」な、というのとはちがうと思う。酒場における人間のありかたが変わってきたのである。そこで人に出会い、ママの人間性に振り回されながら、自己確認をしていたのが、かつての多くの文学者である。酒場は、アイデンティティを辛くも確立する場であった。しかし、いま目指すのは、酒場の優れたユーザになることである。使い勝手のいい場を手にいれ、そこと深く付き合うことで、感覚の満足を得たいと願う。
 これにはすでに、池波正太郎のような先達がいる。この作家は、名著『男の作法』のなかで、女性のいるバーで水割りなどを飲むピント外れを揶揄しながら、「バーの醍醐味というのは、ホステスと仲よくなるより、バーテン(いまはふつうバーテンダーと言う-引用者注)と仲よくなることがいちばんいいわけだ。それでなかったらバーへ行く面白味はない」と述べる。腕のいいバーテンダーに、マーティニ、マンハッタン、あるいは「夏なら」ギムレットをつくってもらう。これを食前酒にして、心晴れやかにディナーへ向かう段取りに胸躍らすわけである。
 「できれば、カウンターがあってそこで立って飲ませる酒場を選び給え」
 「ママさんが美人でスター気取りであるような店は避け給え。バーテンダーは無口なのがいい」
 これらは、コピーライターだったころの山口瞳によるサントリーの広告コピーである。これを書きながら、作家の頭のなかに去来したのは、銀座7丁目のバー「クール」(中央区銀座7-2-14 TEL 03-3571-2604)と、この酒場の熟練のバーテンダー古川緑郎のことだったという。だから、「(近くにオフィスがあったころは)仕事が終ると、ぶらぶらと銀座通りを歩き、クールで古川さんのハイボールを二杯か三杯飲んで家に帰るのが非常な楽しみだった」という。
 ふたりともに「ドロ臭い」世代に属しながら、ドロにまみれず、日々の暮らしの一カテゴリーに、バーをみごとに組み込んでいる。
 彼らよりも、もう少し下の世代に属する村松友視になると、バーという空間に魅かれる度合いはいっそう強まる。
 「帝国ホテルのメイン・バー」(オールド・インペリアル・バー-引用者注)のカウンターに座りながら、バーテンダーがかならず、上から照らすスポットライトの光の輪の端にグラスを置く理由を、作家は考えつづける。思いあぐね、ホテルの関係者に尋ねて、まず端のところに設定しておき、客がグラスを扱うのを見て、ほんとうはどこに置きたいかを知ろうとしているのだという回答を得る。
 こうして、「ホテルのバーの奥深さ」に、感銘を受けるのである。酒場に対して、好奇心をフルに働かせ、正面から向かい合う。
 ひたすら酔うことにかまけていた、かつての酒場小説の世界が、懐かしくも遠くへ去っていく。(文中敬称略)★

(2000.12.26)