明かりに対して、切に望むこと
          
 閉所恐怖症のうえに、暗所恐怖症である。真っ暗ななかではなかなか眠りに就けない。
この二重のフォビアにやられている身として、照明をつねに気にしないわけにはいかない。光があればなんとかなる。明かりに一縷の望みを託しながら、この人生、数々の暗い夜をなんとか生き延びてきたのである。大げさだけど。
 バーへは好んで行く。
 そこはふつう閉所であり、しかも暗所ではないか。ダブル・フォビアでありながら、なぜ、そんな危ない場所に出入りするのかという問いは、当然あると思う。これに対する答えは、あらかじめ用意してある。
 「ハンバーガー・ショップのようにまっぴかりではなく、かといって、真の暗闇でもない。光と闇とが戯れ交錯しながら、曖昧な空間を構成しているのがバーに他ならない。そこでは、お酒の酔いが、適度の恐怖と戸惑いにミックスされて、おそらくはぼくだけに許されている、不安という裏張りのある心地よさの感情に導いてくれる」
 酔いは、光と闇の間に掛け渡す橋である。曲がりなりにも橋が完成して、ふたつの間を往復できたときに、バーにいてお酒を飲んでいる自分という存在が納得できる。
 闇が襲いかかってくるおそれのある場になど、本来なら、いてはいけないはずである。しかし一方に、光によって救われることの快感がある。そのせめぎあいの狭間で、カウンターに向かう。やがて立ち現れるはずの「橋」を待ちながら。
 やはり通りからそのまま入れる路面の店がいちばんだと、バーの経営者ならたいてい言う。しかし、なかなかそんな物件はないから、地下だったり、ビルの上のほうだったりに店を構えることになったと、残念そうな表情をする。
 東京の、それも中心部ではとくに、家賃の問題で、なかなか路面を確保することができない。それでもたまに、その「理想的な」バーはある。しかし、そういうところであっても、まずまちがいなく路面づらはしていない。申し合わせたように地下の酒場を装っている。考えようによれば、もったいない話ではある。
 真っ黒の重い扉を押して入ると、通路からカウンター部分まで、高い天井に、乳白色の大きなグロウブ型の明かりが、連なってぶらさがっているバーがある。柔らかな光がもやもやと散っている。
 ストゥールに腰を下ろすと、すぐ向かいの酒棚に、豆電球が二列に並んでいるのが見える。磨き込んだ黒いカウンターに、その豆電球の群れがそっくり反射して、あたり一面に、小さな光点がばらまかれているかのようである。
 いずれも、照明と呼べるほどに自己主張のある明かりではない。ぼっと明るいだけで、焦点が定まっていない。闇の支配になんとか対抗してもちこたえているんですよと告げているようで、路面店を誇るようなところは、どこにも感じられない。
 地下にそっと置かれる、忘れられそうな空間が、こうして演出されている。だから、扉の外を通り抜けていくらしい、焼き芋屋さんの売り声などが紛れ込んでくると、店主の表情が、一瞬こわばる。こちらの思い過ごしかもしれないけれど、そう見える。
 バーの明かりは、地上の世界から隔離された場にいるかのように錯覚させる。
 スポット照明というものについて、なるほどど合点がいったのは、ずっと昔、20代のころになるけれど、映画『シンシナティ・キッド』を、池袋東口の映画館で会社の仕事をさぼって見たときだと思う。
 スティーヴ・マクイーン、チューズデイ・ウェルド(かわいかった)、アン・マーグレット、カール・マルデン、そして、エドワード・G・ロビンスン、いま思えばオールスター・キャストではないか。それに、ノーマン・ジュイソンの演出だから、完璧である。
 記憶にまちがいがなければ、賭博場でテーブルを囲むギャンブラーたちを、スポットの明かりが浮かび上がらせていた。
 その後、スポット照明は、バーのシーンによく使われるのを知るようになった。ビリアード台に張ってある羅紗布のグリーンを浮かび上がらせるのも、スポットである。
 バーに足を踏み入れたことなどないころから、この照明だけは頭に刻みつけていた。これがバーの証しであると。
 ピン・スポットになると、いっそう迫力がある。手元だけが強い明かりを浴びて、周囲の闇と互角に戦うのだから。
 目の前のピン・スポットのなかにグラスを置かれたときの衝撃は、忘れられない。ぼくはあわてて、明かりのなかに手を伸ばして、グラスを手前に引き寄せ、薄暗いところに「避難」させたものであった。
 強い光にグラスをさらすのは、屈折する光線によって液体を美しく輝かせ、目に美味しさを予告するためなのだが、そこまで思い至らなかった。咄嗟に、自分のお酒が華やかな照明を浴びることへの気恥ずかしさが先に立ったのだと思う。
 いまでも、これには慣れることができないけれど、バーテンダーが、この尖った明かりの下で、カクテルをつくるのを見るのは楽しい。まるでバレーのステージをずっと後ろの席から望見しているみたいに、一瞬、あちらとこちら、別の世界のように遠く感じられる。
 広々としたという形容は、バーに関するかぎり矛盾している。狭いバーに、明かりのおかげで距離感がつくりだされる。
 輪島から乗った急行列車が、金沢に着いたのは、午後の遅い時間である。久しぶりに訪れた街を歩き、夕暮れを待たずに、そのバーを訪ねた。いつか一度はと思っていた店である。運よく開いたばかりであった。念願のカクテルを一杯。
 天井のすぐ近くに、細長い明かりとりの曇りガラスがはめこんである。他に窓はない。イチゲンで口開けの客になったというのも、じつは困ったものである。どうしていいかわからない。所在がなくて、明かりとりを見上げていると、そこが次第に黒ずんでいく。日が暮れる。旅の途次、夕暮れを眺めるのに、なんだか最適の場所のような気がしてきたものである。
 そのとき思い出していたのは、渋谷にある、カウンター席六人の、ごく小さなバーの天井のことであった。一部をくり抜いて黒く塗り、そこに星形を散らして、バックライトを当てている。だから、一年じゅう「星」がちりばめられている。見上げれば、限りない宇宙の幻想。
 バーにいて戸外を意識する。それは本来邪道である。邪なことをあえてしようとするのだから、陽光や月光が無遠慮に入り込んでくることはない。ほんとうの外光であるか、人工光かを問わず、どちらにもフェイク(にせもの)の匂いがする。
 渋谷のバーから外に出て、星空があるとはかぎらないように、あの金沢は、まだ日暮れではなかったかもしれないし、あるいはすっかり夜になっていたということもありうる。明かりとりだからと言って、油断はできない。少なくとも疑ってかかる価値はある。
 バーに於ける明かりは、人をだます。そのためにあると言ったら、期待のし過ぎになるであろうか。暗所恐怖症の人間を、有無を言わせず、薄闇のなかへひきずりこんでしまうだけでも、相当なものである。
 明かりに対して望むのはただひとつ、「どうせ私をだますなら、だましつづけてほし」いということである。お願い、バーの扉を閉じて、外に出ていくまで。
 (『サントリー・クォータリー』62号掲載原稿に加筆)

(2001.5.21)