| 雑司ヶ谷の茗荷屋に結成した彰義隊及旗本及諸藩の隊士が上野の戦いで官軍に敗れ戦いながら逃亡せる途中この付近に物故したる隊士達の地としてここに地蔵尊を建立し奉る |
川越街道が春日通りと名を変える坂道を挟んで、此方南大塚から彼方東池袋を眺めれば、『フーデックス』と『たじま』二軒のスーパーが、いつ果てるともなく24時間戦い続けている。ふたつのスーパーの間の道は歩くほどに細くなりながら、文京区大塚の坂下通りに向かって急降下していく。細道が抜け道化する手前に、小さなお地蔵様がある。ビルの敷地内だがお詣り出来る風情を残すお姿は、春日通りから見て左向き、斜前にある町会の御輿倉を守るかの如く立っている。
その台座に、冒頭の言葉が刻まれていた。まさかこの地が彰義隊と関わりがあるとは思わなかった。だが彰義隊が雑司ヶ谷で結成された事実を知れば、あぁ最後は約束の地に向かおうとしていたと想像するに難くない。慶応4年5月15日、上野の山で壮絶な戦いをした人々が、どこまで勝機を意識していたか分からない。だが素人目にも無謀な戦いに奇跡的に勝っていたらと思うと、漂う悲壮感も想像力に変化する。
生き残った彰義隊の多くは北関東から東北に向かったと言われるが、上野の山から、どうやってここまで来たのだろう? 先ず山下には行かれないだろうから、谷中方向に出たかも知れない。桜木あたりから言問通りを激走し、本郷通りと白山通りを横切って、こんにゃく閻魔を右折して千川通り。どこかで春日通りに出たいが、播磨坂を登るか不忍通りまで直進するかだ。小石川は武家屋敷が多く、同心町もあって、きっと彰義隊贔屓も少なくなかっただろう。傷の手当てや水食料も与えたかも知れない。武士でなくとも、江戸っ子なら彰義隊ファンに決まってる。
上野から起伏の多い道を、総身に血潮を浴びた隊士達が、必死の形相で駆け抜けたのかと思うと、江戸っ子ならずとも声援を送りたくなる。大塚3丁目で最後の富士山を拝み、新大塚駅から枝分かれする道を池袋方向に左折したところで、その幾人かが力尽きていった……かどうかは分からないが、それがこの地蔵尊なのだ。
そうか、お地蔵様は横を向いてるんじゃない。上野の山を見ていたんだ。 |