★深川『海は見ていた』散歩
「等身大の娼婦」たち■
熊井啓監督の新作『海は見ていた』を観る機会があった。脚本は、黒澤明が書き遺したものである、という。山本周五郎の短編作品が原作になっている。黒澤と周五郎の縁は深い。『椿三十郎』をはじめ、『赤ひげ』『どですかでん』と3作が、周五郎作品からの映画化である。黒澤は他にも、この作家のものから脚本をいくつか起こしている。
本作品のベースになった周五郎の短編は、『なんの花か薫る』と『つゆのひぬま』のふたつである。どちらも、いわゆる「岡場所もの」に分類されている。とくに『つゆのひぬま』は、このジャンルの代表作と言っていいであろう。
岡場所とは、江戸時代、幕府に公認されていない娼家が集まっていた私娼地のことである。当時官許の公娼地は、江戸では、吉原以外は、品川、千住、板橋、内藤新宿の宿場町に限られていた。
これに対して、岡場所は江戸市中いたるところにあったと言っていい。なかで、この映画が舞台に選んだのは、深川である。
時代ものに登場する江戸の娼婦というと、職業意識に徹した花魁か、そうでなければ、宿場女郎、湯女、矢場の女、さらに夜鷹や船饅頭など最下層の「流し」と、だいたい相場が決まっている。
ふつうの女の子が、運命の行き違いで娼婦になっていて、したがって、男に対してもごくあたりまえの感覚で接する、そういう「生活者としての娼婦」はなかなか出てこない。
しかし、周五郎の岡場所ものには、平らかな目線でとらえた娼婦の姿が活写される。
この作家にかかると、武士でも町人でも、普段着の面白さがつねにつむぎだされるのだけれど、娼婦という存在そのものが「非日常」であるだけに、そのなにげないありようがいっそう感動的なのである。
すべてが等身大に還元されている。その意味で、山本周五郎という作家は、希望に燃えていたころの戦後民主主義にみごとにはまった時代小説家だったと言えるのではないか。
ところで、映画『海は見ていた』では、清水美砂、遠野凪子、つみきみほ、河合美智子ら女優陣が、「等身大の娼婦」を好演していて、久しぶりに、爽やかな後味を残してくれる。
原作、脚本、監督、演技者の立っている位置がちがっていないことによって、ゆるぎのないドラマに仕上がった。残念なことだが、近ごろの日本映画には、このように骨格のはっきりした作品がほとんど見られないのである。
「あひる」を訪ねる■
現在の深川を歩いても、映画に出てくるような岡場所として繁盛をきわめた頃の面影を見出すことは、もちろんできない。
しかし、隅田川に注ぐ掘割に架かる橋を渡り、あるいは、永代橋の上から、海へ向かって滔々と流れ込んでいく大川の水面を見下ろしたりしていると、そのころの人々が感じたであろう解放感は想像しうる。
吉原のような公娼地を支配していた、窮屈で格式張った雰囲気に、深川は無縁だし、他の岡場所のようなじめじめとした陰湿な空気もなかったのではないか。公方様のお膝元から離れて、自由の風が吹いていた深川は、江戸の「向地」であった。
この映画には、そんな深川探しをしきりに唆される。
周五郎の「つゆのひぬま」の書き出しを読むと、身も心も解き放たれそうな、広々とした風景が眼前に浮かんでくる。
「その土地の本来の名は佃町というのだが、たいていの者が『あひる』と呼んでいた。そこは深川の南の端で、海とのあいだに広く、芦原や湿地がひろがっており、晴れた日には海の向うに上総から安房へかけての、山や丘を眺めることができた。──北側は堀で蓬莱橋というのを渡ると永代門前町になり、びっしりと建てこんだ家並のかなたに、深川八幡の高い屋根や、境内の森の梢が見える。その界隈には仲町、櫓下、松本町など、料理茶屋や岡場所が多く、また、川向うとは違った意気で知られた、『羽折芸妓』などもいて、深川ではもっとも繁華な町であった」
なお、この佃町は佃島ではない。深川の町の名のひとつである。この町が別名「あひる」と呼ばれたことについては、船頭言葉で 200
文のことをガアと言い、娼家の泊まり代金が 400 文だったところから、ガアがふたつでガアガアだから「あひる」になったという説を、藤沢周平が紹介していたことがある。
「あひる」あたりを尋ねるには、現在の地下鉄東西線門前仲町駅で下車して、木場寄りの出口から地上に出てみる。
そこはちょうど深川不動の赤い山門の前である。広い通りは、永代橋へ通じている永代通りで、この通りを、橋方向とは逆に、木場のほうにしばらく歩くと、やがて左手に富岡八幡宮の鳥居が見えてくるという位置関係にある。
もっとも、不動尊が目立つようになったのは近年のことで、江戸時代には、この一帯は、永代寺と八幡宮が広大な地所を独占していたものである。この寺社の開祖が、江戸のはじめ、永代島という島に過ぎなかった、このあたりを埋め立て、その功によって幕府から地所を下賜されたと言われている。
日本では、寺社の前には、かならず大人たちの遊び場ができることになっている。お参りをしたらきまって、遊興に、飲食にいそしむのが、日本人の慣わしになってきた。深川の八幡宮界隈もその例に洩れず、周囲に立ち並んだ茶店に、遊女が置かれ、それが岡場所のきっかけになった。
さて、先の不動尊の赤い山門を背にして、南へ向かう道をたどると、大横川(かつての大島川)という掘割に出会うはずである。どの道をとるかで、東富橋、巴橋、石島橋といった橋のどれかを渡ることになる。掘割の南側に、牡丹、古石場と、いかにも古風な名前の町がある。このあたりに岡場所が展開していた。「あひる」も、一角を占めていたのである。
そこからはすぐ南がもう海であった。大横川と交錯する平久川の平久橋のたもとに、波除碑が残っている。これは、寛政3年に、台風の高潮が一帯の民家を呑み込んだ教訓から幕府が建てた警告の碑である。
映画「海を見ていた」のクライマックスは、暴風雨の後、ゆっくりと上がってくる水に、娼家が沈んでいくシーンである。海と隣り合っていた岡場所というロケーションが、効いている。
平久橋を渡って、まっすぐ東へ向かうと、間もなく洲崎弁天社がある。江戸の昔は、海中の島にまつられた「浮き弁天」であったという。
こうして、深川を歩くとは、海と水の記憶を辿って行くことに他ならない。それは、江戸東京のそむけあうふたつの顔を確認する作業でもある。公権力の中枢としての「集中」と、水に浮かび流されることによってどこへでも漂っていけるかのような幻想を生み出す「拡散」と、ふたつがせめぎあう都市としての江戸東京を、もっともよく実感できるのが深川である。
岡場所「あひる」の娼家、その名も「葦の家」に流れ着く男たちは、吉岡秀隆演じる、喧嘩の場から逃れて匿われる若侍だったり、永瀬正敏が扮する、不幸の二字が人生の全てであるみたいな料理人だったりするわけである。彼らを迎える女たちが繰り広げる束の間のユートピア。
水都ヴェネチアになぞらえる■
大正の末年に刊行された『深川情調の研究』という労作は、深川を水都ヴェネチアになぞらえる知的大冒険を敢行している。そのために、イギリスの詩人アーサー・シモンズのヴェネチア旅行記の一節まで引用されているくらいである。
そのうえで、執筆者の西村眞次は、「私は深川をどうしても東京のように感じない。そこを独立した、東京以外の、どこにも属していない一水都のように思ってならない」とまで言っている。
このあたりは、もともと隅田川が押し流す泥が堆積した河口デルタの湿地帯であった。家康の時代になって、本格的な埋め立てに着手している。すでにかなり陸地の体裁をなしていた北側から、南下する形で地面がつくりだされていった。
地下鉄東西線は、文字どおり東西に走っているが、その北側に、並行して都営地下鉄の新宿線が通り抜けている。その新宿線のすぐ南に、小名木川が流れているが、このあたりが深川開発のはじまりであった。
なお、小名木川は、もともとの名が宇奈岐澤(うなぎさわ)で、そのあたりで鰻がたくさんとれたと言われている。そのせいか、江戸時代には、深川と言えば蒲焼きと言われるほどの名物になっていた。八幡宮を描いた、昔の絵には、茶店の軒先に「めいぶつ大かばやき」などと書いた看板が出ている。
埋め立てが進んで、掘割が四通八達し、とくに、材木問屋の木場ができると、水路は欠かせないものになった。というのは、当時は、秩父や上州の山で切り出された原木を筏に組んで川を下ってきて、これを各材木屋が専用の貯木池に引き込んで処理していたからである。それぞれが筏師を抱えていて、木場では、彼らを川並と呼んでいた。全国に材木の基地はいくつもあるけれど、こういう呼び名は他の土地にはない。
掘割は、岡場所通いのかっこうの交通路にもなった。船頭たちは船を操るだけでなく、幇間も兼ねて、客をもてなしたそうである。橋袂の船宿は、密会の場所になった。
日本橋あたりから軽快な猪牙船(ちょきぶね)を仕立てて乗り込んでくる男たちにとって、深川は楽園のイメージに彩られていた。「猪牙でいくのは深川通い 上る桟橋がいそいそと 客の心も上の空 飛んでいきたい 主のそば」とは、深川の宴席の定番『深川節』の一節である。
一方の、駕篭を走らせ、坂を上り「深い馴染みのお楽しみ」へ急いだ吉原とは、鮮やかな対照を見せている。心躍る水の都、深川であった。
明治になって、根津から洲崎に遊郭が移ってきてからも、船は活躍をつづけていた。当時、洲崎に遊んだ翌朝、登楼した家の娘を一緒に船に乗せて、両側に白壁の並んでいたころの大島川を下り、八幡宮に近い橋袂で、三味線の稽古にいく彼女を下ろしたという思い出を、永井荷風が書いている。
映画の世界は消えたけれど■
いまは遊里ではもちろんのこと、木場も消え、掘割はだいぶ埋め立てられてはいる。しかし、水のある風景はしっかり残って、すぐれた景観を形成している。これらを尋ね、界隈になお健在の掘割をめぐるのが、深川散歩の真髄である。
しばらく前から掘割を利用した親水公園づくりがつづけられてきたが、その成果がやっと目に見えるかたちで現れている。水辺の公園にやってくる水鳥の種類が年々増えているのが、その証明で、これにつれて、カメラをもってやってくる人たちが目立つ、きょうこのごろである。
水は、公園の樹木の生育を促して、とりわけ、春から夏にかけての青葉の季節の水際は、生気に溢れている。
男たちの楽園は、遠い過去の記憶のなかにしまいこまれ、映画に登場したような、岡場所の健気な女たちが退場して久しいけれど、深川は、豊かな自然に彩られた水都でありつづけている。
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<映画『海は見ていた』は、6月下旬全国松竹・東急系でロードショー公開>
(『東京人』誌2002年7月号掲載原稿に加筆)
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