| ★版画家・谷中安規に関する若干のメモ .
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ドラゴンズ・ドリーム▲ 1939年頃(木版) 21.2×27.5cm 東京国立近代美術館蔵▲ |
1 月 23 日の渋谷の朝は、寒かったけれど、快晴であった。東急本店の地下にある紀伊国屋に寄って、チーズを買うつもりにしていた。ところが、このデパートは 11 時の開店という。デパートって 10 時に開くもんじゃないのか、とぶつぶつ言い、隣の東急文化村のロビーにある喫茶店でコーヒーを飲む。10 時を過ぎたばかりで、店には他に客はない。コーヒーのお代わりをすすめられたけれど、そうするには自信のもてない味であった。
松濤美術館へ歩く。閑散とした街。ところが、館内に一歩入ると、ずいぶん大勢の人。外はひっそりしているのに、内部はぎっしり、ということは、都会ではよくある。とりわけレストランなどで、何度か経験したことがある。レストラン状態の美術館。
谷中安規については、テレビで紹介されたばかりなのだそうである。「谷中安規の夢」展は、12 月 9 日から、年を越して開催している。2 月 1 日の終了まで、1 週間あまりしかない。これでこの混み方というのは、放映の効果しか考えられないであろう。
1897 年奈良県桜井市に生まれる。植民地だった朝鮮半島で成長する。東京へやってきて、版画家となる。内田百
や佐藤春夫などに愛され、援助を受ける。戦争直後の東京・駒込の焼け跡地で、自ら焼けトタンでつくった掘っ立て小屋に暮らすうち、栄養失調のため死んでいるのを発見される。1946 年のことであった。
男性でも女性でも、谷中の目の描き方に魅かれる。射すくめるような目が、正面からこちらへ向けられている。視線がまっすぐにやってくる場合は、例外なく、鋭く、妥協を許さない。版画家自身の人間観、心から人に馴染むことがなく、恐れを抱きながら生きたことの現れのような気がする。
「おかぼちゃさま國建設委員長 雲居復興農園主風船画伯」 これは、百
が安規に与えた称号であるという。かぼちゃの大きな姿を愛し、風船のように東京を漂って歩く谷中を評してのものである。
関東大震災の復興から、長い戦争の時代までの、短い短い時間。東京がもっとも繁栄し、街に暮らすことの快楽を人々が満喫した時代であった。谷中は、映画とコーヒーをこよなく愛したという。コーヒーの淹れかすで、下水道をつまらせてしまったエピソードがある。〈渋谷〉〈新宿ムーランルージュ〉〈シネマ銀座〉〈駒込動坂〉、これらが、彼の描いた東京である。飛行機、飛行船、自動車、電話などのマシンが大好きであった。「黒の踊り」と称して、裸になってよく踊り、モダンダンスに興味を抱いていた。彼の描く人間には、かならず手足にポーズがある、という解説が記されている。
「内からうごめくなにか」 これを谷中の原動力という見方を、この展覧会の企画者はとっている。奈良、朝鮮、東京という、彼の人生の時間が辿った道筋に、そのアートの秘密はあるのではないかという気が、ぼくはする。都市の華やぎに、自分を投げ込みながら、違和感から脱することができない。その落差のなかに奔出してくる幻の数々。
最後の一年。谷中は廃虚となった東京で、文字通り野のなかに暮らす。かぼちゃを育て、蜘蛛が巣を作るのを一日じゅう眺めながら。消えてしまった東京は、彼に安らぎを与えたのではないか。版画をつくって売る暮らしと、そうした経済に溶け込めない自分と。
中学の級友である僧侶の妹に恋をして、その寺にいつづけてしまう話。旧友の僧侶は、そんな彼をもてあまして、何度も「別れの宴」をひらいたそうである。その宴もまた、作品の素材になっている。
棟方志功の成功の対極として、この企画展では、谷中を位置づけているようである。
図録はすでに完売したそうで、入り口で予約注文をとっていた。
美術館の外に出たのは 1 時近く。渋谷の雑踏に戻ることが厭われて、ラブホテル街の円山町を抜けて、桜ケ丘へ出る。渋谷の尾根を伝っていったことになる。ロシア料理のロゴスキーで昼食をしようとして探すけれど、見当たらない。たしかにこの建物という場所に、東方見聞録が新開店、のポスターを見る。なんだか腑に落ちない。
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■「谷中安規の夢 シネマとカフェと怪奇のまぼろし」
2004 年 2 月 1 日まで。以後、各地を巡る。
渋谷区立松濤美術館 渋谷区松濤 2-14-14 電話 03-3465-9421
[2004.1.16.]