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リチャード・ライト『アウトサイダー』■ 見えない空へ目を向ける■ 血統の「正しさ」が証明される■   ジョー・ルイスのハーレム■ 彼を殺したのはだれだ■ 白人社会への挑戦■   ハーレムの日々を反芻する■ ジャズが駆り立てる興奮■ ジャズ・エイジの残光■   ビリー・ホリデイの肉声■ もう少し早く生まれていたら■ 大きな夢に向かわせる応援歌■   黒々ところがる地雷■ 17歳のハスラーの誕生■ 1930年代のマリワナ■   感情生活の内面■ 1943年の暴動■ 闇の履歴■ ハスラーの美学■ 仁義に欠ける行為■ さらば、ハーレム■ 墜落は突如として■ 自宅が焼ける■ 一発逆転への賭け■ 小さな出来事の深い意味■ 恐怖心と虚勢と■ 誇大妄想か否か■ 暗殺のリハーサル■ 「天国の扉にノック」■ 『マルコムX、その生と死2』につづく


リチャード・ライト『アウトサイダー』■

 1908年生まれの黒人作家、リチャード・ライトに『アウトサイダー』という長編がある。1953年に発表されたもので、60年に死去するライト晩年の作である。処女小説集の『アンクルトムの子供たち』や、つづく『アメリカの息子』などと比べると失敗作だという評価が定着している。

 しかし、スラムが黒人をとらえて離そうとしない現実を、これほど絶望的に描いたフィクションを他に探すのは困難であろう。出口のない空間にとりこまれてのたうつアフリカン・アメリカンの生そのものが描かれる。実存主義に魅かれたライトは、そこに自らの生の確認を見出したのにちがいない。

 ライトは、深南部ミシシッピ州の農場で少年時代を過ごし、その間、あからさまな差別にさらされつづけた。20代になり、南部を逃れてシカゴに移る。しかしそこには、もっと手の込んだ、もっと精神を痛めつけられる類いの抑圧が待っていた。

 死後の1977年になって公刊された自伝『アメリカン・ハンガー』のなかでライトは、ある病院のラボで床掃除をしていたときのことを書いている。白人は彼がモップでぬぐったばかりの、まだ濡れている床を平気で踏みつけて歩き、靴底のよごれをまきちらしてはばからない。「私が、思慮のない白人たちへの憎悪に燃えたことがあるとすれば、そのときだった。私がそこに勤務している間じゅうで、濡れた箇所を避けるぐらいの思いやりでも示した白人はただのひとりもいなかった」

 南部と異なり、大都市シカゴの白人たちは彼を殴ることも蹴ることもしない。それは、視野のなかにいるはずの黒人をすでに「抹殺」しているからである。スラムは、白人の意識の空白部分においやられてしまっている。映画『ゴッドファーザー』には黒人がひとりも登場しなかったが、マフィアのボスがヘロインをスラムで投げ売りする決断をくだすにあたって、「やつらは結局、けだものだ。魂などなくしてしまってもかまうものか」と言い放つ場面がある。南部の田舎からは、ともかく身ひとつを覚悟すれば脱け出せる。しかし、北部では、魂を無価値なものと決めつけられる黒人に逃げ場はもはやない。

 『アウトサイダー』の主人公、クロス・デイモンは、シカゴの黒人スラム、サウスサイドに住む郵便局員である。当時、郵便局に勤められるのは、黒人としてはエリートの証明であった。デイモンには、離婚を承知しない妻と、妊娠していることが明らかになった愛人とがいる。ふたりの女の間で窮地に陥っている彼は、ある夜、地下鉄事故に巻き込まれ、危うく生還する。ところが、事故の死亡者リストのなかに自分の名前があるのを発見する。これがデイモンの運命を変えることになるのである。彼はとっさに「アイデンティティを逃れる」つまり、他人になりすまし逃亡するというアイディアを思いつく。(なお、この作品をミステリーに分類する見方もある。とりわけ終盤にかけての展開に、ストーリー・テラーとしての才腕が発揮されている。邦訳は1972年に、新潮社から2巻本で刊行されている。橋本福夫訳)

 白と黒と両方の遊び人たちで混雑する、薄暗い酒場で、デイモンはビールのグラスの上にうずくまりながら、「あと4、5日、そう、ニューヨークへ発つまで誰になりすましていようか」と考える。

 こうして、この小説のなかではじめて、何気なさそうに、ニューヨークが登場してくる。すぐ後に述べるが、黒人デイモンにとって、ニューヨークとはハーレム以外のなにものでもない。別のアイデンティティを獲得するにはニューヨークへ行くしかない──。20世紀の半ばまでの黒人にとっては、ハーレムが切り札であった。

 過去の自分と決別しようとするデイモンに、行き先で迷いが生じることはありえなかった。というよりも、もはや他にはどこもなかった。出発まで隠れ住んだ安ホテルで、運悪く友人に出っくわし、これを殺害する。そして、夜行列車でニューヨークへ向かう。

 そこは、彼にとって初めて訪れる街ではない。夏休みに、妻と連れ立って遊びにきたことが二度ある。当時のハーレムは、若い黒人のカップルが休暇を過ごすために出かける観光地でもあった。デイモンのように、生活に余裕のある黒人でも、思いきり羽を伸ばして遊べる場所は、ここぐらいだったのである。他に選択の余地のない、たったひとつの楽園であった。この「パラダイス」へ、今度は逃げ込もうというわけである。

見えない空へ目を向ける■

 マンハッタンのグランド・セントラル駅に到着したデイモンは、躊躇することなく、そこからタイムズ・スクエアまでの短い距離を往復する地下鉄に乗り、タイムズ・スクエアからはハーレム方面行きの急行に乗り換える。どこで下車しようかと考えはじめるのは、電車が110丁目に着いたときである。ここがハーレムの入り口にあたる。

 シカゴからの逃亡者は、「俺はあまりにも自由だ」という思いにとらえられ、下車する駅をなかなか決められない。当時、ハーレムの繁華の中心だった125丁目の駅でいったん、ホームに出る。すでにニューヨーク経験のあるデイモンには、このあたりの地上が混雑しているだろうことはよくわかっている。そこで思い直す。人通りが多い分、知った人間にばったり会ってしまう危険もある。身を隠さなくてはいけない者の用心深さをすでに身につけていた。あらためて鈍行に乗ると、次の135丁目駅まで上っている。下車して、地上に出ると、そこは、7番街と136丁目の交差点である。ここからデイモンのハーレムがはじまる。

 自由が過剰であることに悩むというけれど、せいぜい、地下鉄を少しだけ先へ行くがどうかの選択でしかない。この程度でも、デイモンに、十分過ぎる自由の自覚を促したわけである。

 ライオネル・レインという、死後まもない黒人の誕生証明書を入手して、レインになりすました。しかし、たちまち新たな困難にぶつかる。彼の前にたちはだかるのは、アメリカ共産党である。デイモンは、肌の色が黒いというだけのことで、このイデオロギー集団によるプロパガンダの道具にされかける。ライト自身、1930年代に共産党員だったことがあり、その経験がここに投影されているのであろう。

 逃げ場を失ったレインことデイモンは、つぎつぎに殺しを重ねる。被害者には党員もそうでない者もいる。この人物を支えるのは、生きることへの強い意志だけである。追いつめられ、いままで自分では気づいていなかったが、犯罪者としての類い稀な天分が発揮される。警察も地方検事も、この連続殺人犯を罪に問うことに失敗してしまう。しかし、彼の背後に迫る、強大な敵がいる。同志殺しの裏切り者を追う党である。殺人者デイモンは、遂にハーレムからの脱出を試みる。

 「彼はレノックス街に至り、ダウンタウンへ向かった」。レノックス街はハーレムの中心を南北に貫く大通りで、セントラル・パークの北の端、つまり110丁目で行き止まりになる。ここからデイモンはセントラル・パークに沿いながらダウンタウン方向へ歩きだしたと記述されている。公園を右手に見ながら、五番街を下りはじめたのであろう。霧が出ている晩であった。

 彼はこうして、ハーレムを踏み越えたことになる。自由をもてあましているという思いにとらえられながら、そこへ入っていった黒人が、今度は必死に脱出しようとする。党が差し向けた追っ手が背後に迫っている。デイモンはタクシーに手を上げる。半ブロック先に停まったクルマに向かってダッシュする彼を、追っ手の弾丸が襲う。仰向けに倒れた男は、「見えない空へ目を向けた」。

 デイモンにふたたび空が戻ってくることはない。ハーレムを出た途端に死に迎えられたのである。この頃のハーレムが、黒人の夢をひたすら吸い込んで膨れ上がる空間であったことが暗示されている。自由への夢想は、自由とはかけはなれた現実に唆されながら、肥大する。その中心にハーレムがある。だから、夢を見つづけていたいのならば、110丁目の向こうへ、ハーレムの外へ出てはいけなかったのである。内の輝きは外の闇の反転であり、闇が濃ければ濃いほど、輝きは増すように錯覚される。それがハーレムに他ならない。

 クロス・デイモンがたどった運命は、マルコムXのそれを先取りするものであった。ハーレムに関わりを持った黒人たちのなかには、同じように生き、同じように死んでいった者が多い。さまざまな死の集約点、それがマルコムXであることが、やがて了解されるであろう。

血統の「正しさ」が証明される■

 16歳のときにハーレムにたどりつくまでのマルコムXことマルコム・リトルの生い立ちを簡単に述べておこう。彼は1925年5月19日にネブラスカ州オマハに生まれている。父親はバプティスト派の説教師でジョージア州の出身である。母親のほうは西インド諸島からの移民であった。一家はその後、ウィスコンシン州ミルウォーキー、ミシガン州ランシング、イースト・ランシングと転々と居を移す。この間に、マルコムの父は死に、母親は精神病院に入れられる。

 彼の『自伝』によれば、14歳のときに、大好きな教師に向かって、将来は弁護士になりたいと言ったところ、「ニガーには現実的な目標ではない」と諭されたという。これが彼に、カタギの道を捨てさせるきっかけになったようである。スパイク・リーの映画『マルコムX』でも、重要な転機として描かれていた。

 なお、政治学者のブルース・ペリーが、マルコムXの関係者420人あまりにインタビューして書いた伝記『マルコム』が1991年に刊行されているそれによると、『自伝』には、多くの思い込みや省略、あるいは虚偽さえも含まれているようで、一筋縄ではいかない人格が浮かび上がっている。彼の述べていることのすべてを鵜呑みにはできないということをつねに念頭に置く必要がある。

 それはともかくとして、父母を失った少年マルコムは、異母姉のエラを頼って、ボストンへ出ていく。たちまち大都市の若者らしく、変貌を遂げる。肩幅が突き出して丈が長く、パンツのすそが締まったズート・スーツを着込んで、縮れ髪はピンとさせコンク頭に仕立て上げて、皿を洗い靴を磨いた。当然のように悪事にも手を出す。やがて、ニュー・ヘイヴン・レイルロードという鉄道会社にもぐり込んだ。ニューヨークへ行くチャンスがあると考えたからである。                    

 『自伝』のなかでマルコムXは、憧れのハーレムについて、つぎのように述べている。

 「ランシングのような遠方にいたときでさえ、私は、ニューヨークとくにハーレムがいかに華であるかを聞かされていた。実際、私の父がハーレムを語るときは誇りにあふれていたし、ハーレムでマーカス・ガーヴィの支持者たちが催す大パレードの写真を幾枚も見せてくれた。そして、プロボクシングの「褐色の爆撃機」ことジョー・ルイスが白人相手の試合に勝つたびに、『シカゴ・ディフェンダー』『ピッツバーグ・クーリエ』『アフロ・アメリカン』などの黒人紙は、一面を大きな写真で飾った。そこには、ルイスが、ハーレムのテレサ・ホテルのロビーに立って、路上を埋める「ニグロ」の大群衆に応えているシーンがあった。他の土地で耳にする、ニューヨークの噂はエキサイティングなことばかりであった。明るい灯を浴びて発光するブロードウェイ。ハーレムのサヴォイ・ダンスホールやアポロ劇場では、偉大なバンドが演奏し、楽曲もダンスステップも、そして『ニグロ』のスターも、そこから生み出される。聞かされるのはそんなことばかりだ」

 この引用に出てくるマーカス・ガーヴィは、ハーレムの煽動家として、マルコムXの大先輩にあたる。彼はジャマイカの出身で、1917年にハーレムにやってくると、翌年には週刊紙『ニグロ・ワールド』を創刊して黒人の団結を訴えはじめた。この人物の傑出しているのは、祖国アフリカへ還ろうと主張したところにある。当時の国際連盟にアフリカ移住の許可を求め、リベリアとの間で割譲交渉にも入っている。これは失敗に終わったが、その後、帰還のための運動組織をつくって、アフリカから白人を追いだすことを目標に掲げた。これは、近年のアフリカン・アメリカン思想の原点である。

 マルコムXの父アール・リトルは、ガーヴィの運動の精力的なオルグのひとりであった。その息子は後に、合衆国の土地を黒人に分割することを求める「ブラック・ムスリム」運動に身を投じていくわけである。その血統の「正しさ」が照明される。

ジョー・ルイスのハーレム■

 もっとも、マルコム・リトル少年を夢中にしたのは、「褐色の爆撃機」ジョー・ルイスのほうであった。『自伝』第2章の冒頭は、つぎのようになっている。

 「その年、1937年の6月27日、黒人ジョー・ルイスは、白人ジェイムズ・J・ブラドックをノックアウトして、世界ヘヴィー級チャンピオンになった。そしてランシングのすべてのニグロは、他のどこのニグロとも同様に、我々の世代が知るかぎりで最大の人種の誇りの祝典に狂喜した。歩けるぐらいの年になっている男の子ならだれでも、褐色の爆撃機の後を継ぎたいと思った」

 兄のフィルバートはすでにボクシングをはじめていたし、このとき12歳のマルコムも刺激されて、さっそくバンタム級でデビューした。もっとも、ビル・ピーターソンという白人少年に二度ノックアウトされて、リングを去っている。

 ジョー・ルイスをめぐる「ニグロ」の熱狂ぶりには、マルコム・リトルが憧れたハーレムの雰囲気がみごとに映されている。

 田舎町の少年たちにまでボクシングへの夢を見させることになったルイス対ブラドック戦は、シカゴのコミスキー・パークで行われた。そこは、メジャー・リーグのシカゴ・ホワイトソックスの本拠地である。ルイスは、第8ラウンドにブラドックをノックアウトしている。この報が伝えられると、推定で10万人の群衆がハーレムの通りに溢れ出て、ルイスの勝利を祝ったと言われる。

 ジョー・ルイスは、アラバマ州の農場に生まれた。間もなく父親が精神病院に入ったために、母親は8人の子どもを連れて、デトロイトに移住している。時代は大恐慌の只中だったが、ルイスはフォードの自動車工場に雇われ、週25ドルを手にした。ボクシングは友だちと一緒に練習を見に出かけていき、おもしろくなって自らはじめてしまったのである。

 リチャード・ライトといい、マルコムXといい、そしてジョー・ルイスといい、その生い立ちがよく似ている。これは偶然ではない。そのころの大都市の黒人の多くが、同様の履歴であった。彼らの生きる道はきわめて限られていたと言うこともできる。

 ジョー・ルイスは早くから頭角を現した。当時は、黒人がプロ・ボクシングで大成するのは非常にむずかしい時代であった。「チャンピオンになりたければ先ず白人になることだ」と言われたくらいである。しかし、ルイスの実力が、この状況を突破していく。30年代半ばに、彼はニューヨーク州のボクシング・ライターの晩餐会に招かれた。これがきっかけになり、当時支配的な立場にあったニューヨーク州ボクシング・コミッションが、ルイスと一流白人ボクサーとの試合に道を開いた。

 このころの試合のフィルムには、ゴングが鳴る前にリング・アナウンサーが「人種や肌の色に関係なく、広く偏見のない心で応援してほしい。強い者が勝つのだ」と観衆に呼びかける場面が収められている。当時のボクシングの試合は、人々のなかから差別意識を追い出すための啓蒙の役割を果たしたと言える。それだけにいっそう、スラムの黒人にとってルイスは、大きな希望の星として輝いていた。

 35年9月にヤンキー・スタジアムで挙行された試合でも、人種差別のヤジを飛ばさないようにという注意が場内に放送された。このときルイスにノックアウト負けを喫した白人ボクサー、マックス・ベアが、試合後のインタビューで、こんなことを言っている。「ハーレム全体と戦っているようだったよ。彼は厚い雲を突き抜ける陽の光なのさ」

 結婚して間もなかったジョー・ルイス夫妻がハーレムの通りを歩くと、一瞬にして、周囲の交通がストップした。

 38年6月22日に、マックス・シュメリングと戦った夜には、ハーレムの七番街は、じつに20ブロックにわたって人で埋め尽くされて、身動きのとれない状態になった。この試合は、大方の予想を裏切って、ルイスがわずか1ラウンド2分4秒でシュメリングをマットに沈めた。へヴィー級の長い歴史のなかでも、名試合のナンバーワンに挙げられている。敗れたシュメリングは背骨を痛める重傷を負った。試合が行われたのは、やはりヤンキー・スタジアムで、スタジアムのあるブロンクスから、マンハッタン中心部の病院まで彼を運んでいった救急車は、途中、ハーレムの大混雑に行く手を阻まれてしまい、大きく迂回しなければならなかった。

 雲のなかから射す光は、わずか一条に過ぎなかった。それでも、これだけの熱狂と興奮とが喚起される。16歳の若者、マルコム・リトルがやってくるハーレムがこれである。シュメリングを倒したルイスに、カウント・べーシーとポール・ロブソンが捧げた曲には、「クリーヴランドやセントルイス シカゴへも行ってきた だけどハーレムがいちばんさ ルイスのファイトが見られるじゃないか」という歌詞がある。ハーレムは特別だったのである。

彼を殺したのはだれだ■

 マルコム・リトルが鉄道に雇用される際に、実際は16歳なのに21歳と年齢を偽っている。彼はしばらくボストンとワシントン間の列車の「4番コック」、つまり皿洗いをしていたが、ニューヨーク行き「ヤンキー・クリッパー」号のサンドウィッチ車内販売員が一時休みをとるというので、このチャンスに飛びついた。とうとうニューヨークへ行ける。列車がグランド・セントラル駅に到着すると、「私は、まだ乗客がひとりも下りないうちに、ズート・スーツ(上着の肩幅が広く、丈長で、パンツの裾がせまくなった、派手な男子服。1940年代に大流行した)に着替えてしまった」と言うほど、舞い上がっていた。

 「コックたちは、私をタクシーに乗せてハーレムへ向かった。白人のニューヨークが、まるで映画のセットみたいに、傍らを通り過ぎていく。我々のクルマが110丁目で、セントラル・パークの上端を離れると突如、人々の顔の色が変わりだした」

 先輩たちに遊び場を案内され、一晩でハーレムの「麻酔にかけられた」マルコム・リトルは、その後は、ハーレムYMCAを常宿にし、やがて、繁華な七番街の下宿屋にやすい部屋を借りるようになる。

 リチャード・ライトが仮託したクロス・デイモンは、家庭も愛人もある大人で、しかも人目を忍ぶ逃亡者であった。ティーン・エージャーのマルコム・リトルのハーレム・デビューは、デイモンに比べればずっと華々しい。鳴り物入りと言ってもいい。しかし、彼の年ごろであれば、将来の夢をどんなにでも描けるはずである。しかし、自分の頭には、ひどく低い天井が覆っているのを自覚していた。ハーレムはむしろ、その鬱屈した状況を忘れるための、ひとつだけ残された手段だと考えたのではないか。彼がもし、ハーレムの路上で、クロス・デイモンに遭遇したとすれば、ふたりはおたがいの目の奥に、自分の姿を発見したにちがいない。

 マルコム・リトルは1944年の10月ごろまでニューヨークにいて、その後は主にボストンで暮らし、46年1月、盗みで逮捕されて刑務所入りする。所内で「ブラック・モスレム」の教えに出合って信徒となり、次にハーレムに戻ってきたときには、マルコムXと名乗る布教活動家であった。

 マルコムXがなぜ殺されるに至ったかは、いまも完全には解明されていない。たしかなのは、彼が「ブラック・モスレム」の教義に忠実に従って、黒人たちにだけ親しく語りかけつづけていたら、凶弾に倒れることはなかったということである。マルコムXは、あるときから、白人に向かっても口を開くようになっていた。しかも「敵」としてではなくて、そのなかに味方がいるかもしれないという前提で語りかけた。彼の意識は、ハーレムの枠を越え、黒人スラムのかせから解き放たれかけていた。

 黒白分離主義者だったマルコムXの精神に変化が兆していく過程については、『自伝』の執筆を任されたアレックス・ヘイリーが克明に書きとめている。

 その最初の徴候はおそらく、1963年のいつか、マルコムXがクルマを運転していて赤信号で停まったときの、小さな出来事に由来する。隣りに並んで停車した白人の男が、この黒人運動家を認めて、「みんながきみに傾倒するのを責めないよ。ぼくもニグロだったら、きみについていくね。がんばって戦いつづけてくれ!」と声をかけたのだという。これに対して、マルコムXはとても真剣な言い方で、「ぼくに白人支部があったら、きみのような人に会えるのに」と応じた。信号が青に変わり、両方のクルマが動き出すと、彼は助手席のヘイリーに向かってすぐ、「いまのことは書かないでくれよ、二度と蒸し返してもくれるな。こんなこと聞かせたら、モハメッド師(ブラック・モスレムの教祖イーライジャ・モハメッド)が発作をおこすだろう」と、断固とした口調で言った。

 それだけのことで、ヘイリーも当座はさして気にもとめず、後になって、あれがそうだったかと思い当たる程度の萌芽であった。

白人社会への挑戦■

 1964年、つまりその死の前年に、マルコムXは「モハメッド師」と袂を分かち、別のイスラム教派をつくった。「私はもはや人種主義に加担していない。自分の考えを調整して、白人も人間だという地点までたどりついた。もっとも、彼らがニグロに対して人間的な態度をとるのでなければ話にならないけれど」と語ったのは、殺される9ヶ月前のことである。

 白人への憎悪と軽蔑は、スラムのいわば存続条件である。これらの悪感情があるからこそスラムはありつづけている。それらは同時に、スラムの外の広大なアメリカ合衆国そのものの存続をも保証している。スラムの内と外に橋をかけるのはタブーとされてきた。マルコムXはこの禁を冒しかけた。ここに暗殺の「環境」が用意される。

 先のリチャード・ライトは、第二次大戦後に、白人の妻とともにアメリカを離れた。『アウトサイダー』も、ロンドンとパリで書き継がれたものである。パリで最期を迎えている。クロス・デイモンを盾に凶弾を逃れるライトには、もはやアメリカに居場所がなかったのであろう。

 マルコムXと同世代の黒人作家ジェームズ・ボールドウィンも、20代からのほとんどをフランスで暮らして、1987年に、南フランスで死去している。

 ボールドウィンの場合は、生粋の(という表現も変だが)ハーレムの子どもであった。パーク・アヴェニュー沿いの安アパートの最上階が、彼の「生家」で、北からマンハッタンへ入ってくる鉄道線路の真上である。つまり、マルコム・リトルもクロス・デイモンも、ボールドウィンの家族のアパートの下を通過してニューヨークいりしたことになる。

 1960年に発表したエッセー「フィフス・アヴェニュー アップタウン」のなかで、ボールドウィン自身が語っている「縄張り」は、西はレノックス街から東はハーレム・リヴァーまで、南北は130丁目と135丁目の間の地域である。他所者のマルコムXなどとは異なり、自分の皮膚の延長としてハーレムが語られている。

 「ハーレムの人々は、自分らがそこに住んでいるのは、他のどこに住むにも適さないと白人たちに思われているからだとわかっている。いかなる『改善』も、この事実を甘やかすことはできない。ハーレムにしろ他のゲットーにしろ、それらの改善のために現在用意されている金がどのくらいあるのか知らないけれど、そんなものはさっさと火に投じてしまったほうがいい。ゲットー改善の方法はただひとつあるだけである。地上から消してしまうことだ」

 マルコムXは、ボールドウィンを賞賛して、「彼は言葉で白人を混乱させている」と述べたそうである。このエッセーが発表された1960年にはまだ、公民権運動はなかった。掲載された『エスクァイア』の読者の中核をなしていた白人リベラルの多くは、ボールドウィンの文章に、茫然としたにちがいない。スラムを消滅させろという主張の背後には、白人社会へのあからさまな挑戦が見てとれるはずである。

ハーレムの日々を反芻する■

 ジェームズ・ボールドウィンがハーレムを後にしたのは、1948年12月、24歳のときであった。その日は雨が降っていた。母親がアパートの建物の出口まで送りに出て、腕組みをして黙って立っていた。部屋では、幼い妹が兄との別れを悲しんで泣いているはずである。若者はタクシーを拾い、無言のままの母に手を振って去っていった。

 後にボールドウィンと親交を結んだオットー・フリードリック(『タイム』誌シニア・ライター)によれば、「亡命」直前のボールドウィンは、処女小説『山にのぼりて告げよ』の執筆中だったが、出版社からの前渡し金を使い果たし、グリニッジ・ヴィレッジでウェーターをしていたという。

 ある日、彼はレストランに入って、水をくれと言うと、ウェイトレスがぼんやりした視線を向けながら、「うちではニグロの客はお断りです」と答えた。彼は飲料水のカップをウェイトレスに投げつけて、そこを走り出ながら、恐怖に震えていた。「私の心のなかに抱えている憎悪からすると、いつ殺人を犯してもおかしくなかったからだ」

 ボールドウィンがフランスへ「亡命」したのは、十分に予知しうる殺しから逃れるためであった。

 同じころ、マルコムXのほうは、ノーフォーク刑務所でせっせと手紙を書く日々を送っていた。その何通かは、ハーレムにあるバーの気付で、この街で親しくなったヒモやギャンブラーに宛てたものであった。彼らに、アラーとイスラムと、イーライジャ・モハメッドの教えを伝えようと必死になっていた。

 そして、ハーレムを反芻する。

ジャズが駆り立てる興奮■

 マルコムXの名がFBIの調査ファイルに初めて登場するのは、1953年のことである。

 J・エドガー・フーヴァーの連邦警察が、この黒人に注目したきっかけは、彼が盗みで懲役刑に服していた獄中から出した、1950年6月29日付けの手紙のなかに、自分はずっとコミュニストだったと書いたことである。米ソの冷戦が深刻化していく時代で、ソ連につらなる集団と考えられた共産党は、もっとも危険視されるグループであった。

 ただしFBIの関心は次第に、ブラック・モスレムの一員としてのマルコムXに移っていく。イーライジャ・モハメッドが率いるモスレムについて、FBIは1952年、国家転覆を企てる団体のリストに、これを加えるべきだと、司法長官に提言している。結局、そこまでの強硬手段はとられなかったけれど、注意深い監視がつづけられていた。

 マルコムXは52年に出所し、以来、FBIによってその行動をチェックしつづけられることになる。53年5月4日付けの第一回レポートは、ボストンの調査員によって書かれたもので、末尾の部分に人相の記述がある。身長、体重、髪や眼の色、身体つき、人種(ニグロ・ミュラト、つまり黒白混血)、傷跡(右目から鼻にかけて1インチと、左あご下に2分の1インチ)、特記事項(マリワナ常習者、頬ひげ、口ひげ)など、簡単明瞭な書き込みがしてある。

 このレポートでは、姓名の項に、本名のマルコム・リトルにつづき、いくつかの変名、ニックネームの類いを列挙してあるが、その最後に、ジャック・カールトンという名前が見える。これは、マルコムXの『自伝』には出てこないのである。ブルース・ペリーによる伝記『マルコム』(1991年刊)では、1944年7月に、マルコムXがハーレムのナイトクラブ「ロブスター・ポンド」で、バー・エンタテイナーとして雇われたときのステージ・ネームがこれだったと明記してある。彼はダンスが得意で、それを見込まれたらしいが、ときにはドラムも叩いたという。雇い主は後に、彼は「グッド・ボーイ」だけれど、落ち着きがなくて、苛立っている様子だったと回想している。夏だけの臨時雇いだったようで、9月にはお払い箱になっている。このとき19歳である。

 ところで、このジャック・カールトンという名前は、異母兄にあたるアール・リトル・ジュニアがステージで用いていたジミー・カールトンに酷似している。この異母弟についても、『自伝』では、ほとんどついでみたいにして、その名を二度出しているに過ぎない。

 実際には、マルコムXは、この兄を慕い、崇拝さえしていたと言われる。15歳のときに、ミシガン州から単身、ボストンに住む異母姉のエラを訪ね、これが「人生の旅立ち」になるのだが、アール・ジュニアに出会ったのも、このときが最初であった。

 この兄は、12歳で盗みで起訴され、14歳で少年院に入り、いったん出てきたが16歳で逆戻りしている。以後の10年は、刑務所を出たり入ったりして過ごした。シャバにいる間はバーやナイトクラブのステージに立って、ジミー・カールトンを名乗ったわけである。弟のマルコムXをひいきにして、自分がステージに立つときは、いつも前のほうに座らせて、楽屋に連れてきては仲間に紹介したものである。

 若い頃のマルコムXは、いつかこの兄のようになるんだと言いつづけていた。アール・ジュニアは後に結核を患って死ぬのだが、マルコムは、毒を盛られたと言い張り、病死を認めようとしなかった。

 彼が、ボストンで勤めていた週給18ドルのドラッグストアを罷めるのは、この兄の死の直後のことである。間もなくハーレムを目指すことになる少年の頭は、「まともな」社会の埒外で華麗に生きて死んでいったかに見えるアール・ジュニアのことでいっぱいだったのではないか。

 伝記を書いたブルース・ペリーは、ジャック・カールトンというステージ・ネームには、マルコムが尊敬していたジャズ・トロンボーンのブロンディ・ドナルドソンことカールトン・ベル・ドナルドソンの影響もあるとしている。

 マルコムXはまだ学校に通っていたころから、踊るのが好きだったし、つねに人目を引ける自信もあったのだが、ボストンにやってきて、その技にいっそう磨きをかけた。この都市は、ジャズのメッカであったニューヨークにも、シカゴにも近く、一流のミュージシャンが始終訪れる。ダンスホールは活気に満ちていて、少年マルコムを夢中にさせた。

 ガールフレンドのローラと、ボストンのホール「ローズランド」で踊って、満場の喝采を浴びたことを、自ら誇らしげに語ってもいる。そのときに演奏していたのが、デューク・エリントンのバンドであった。バンドのメンバーのなかにもふたりに拍手をおくる者がいたし、デュークでさえ、「ピアノの椅子から半ば立ち上がりながら、一礼した」そうである。

 このときのローラは、外出をとがめる祖母と口論の末に家を飛び出してきたところであった。スポットライトのなかで踊る少女と少年マルコム。やがて彼女は、踊り疲れ、精も根も尽き果てて、つまずきかけ、彼に抱えられる。まるで『サタディ・ナイト・フィーバー』のなかのシーンみたいではないか。

 マルコムXは、更なる興奮を求めて、ハーレムへ向かう。黒人に生まれた自分には、成功や立身の夢は関係ない。せいぜい、いまこのときを華やかに生きて、死んでいきたい。ただでさえ、皮膚を突き通すような、尖った感情を抱え込んで生きている十代の若者が、自らの運命を絶望視するとき、じっと立ち止まってなどいられない。

 マルコムを駆り立てた、当時のジャズを巡る状況は、黒人のリズム&ブルースを基底に白人の十代を巻き込む、後のロックンロールのそれとよく似ている。

ジャズ・エイジの残光■

 マルコムXという人物は、ジェイムズ・ディーン、エルヴィス・プレスリー、さらにはボブ・ディランに連なる、若さの反逆の系譜に読み込むことができる。映画『マルコムX』の公開にあたって、『ニューズウィーク』誌が行った世論調査によれば、「マルコムXは今日、アメリカ黒人のヒーローだと思いますか」という質問に対して、イエスと答えた者が全体では57%だが、これを18歳から24歳までの若者にかぎると84%と、飛び抜けた数字になった。マーチン・ルーサー・キングが大人の「英雄」であるとすれば、これに比肩するぼくたち、私たちの「ヒーロー」をブラック・アメリカの若者は獲得したと考えられる。

 若いマルコムにとって、ハーレムにはじめてやってきて過ごした3年は、ある意味で、その生涯のハイライトであった。黒人運動家としてのマルコムXの核心部分には、喜々としてハーレムへ飛び込んでいき、沸き立つ感情のままに生きたマルコム・リトルあるいはジャック・カールトンがいるにちがいない。それは、バー・カウンターで生き抜く知恵を学び、街角の闇で差別の教訓を噛みしめる若者である。

 ただし、『自伝』のなかには、ジャック・カールトンの名がないことを思い出してみたい。想像するに、革命家への成長を模索していた晩年のマルコムXには、「若気の至り」という思いがはたらいていたのであろう。身内のヤクザな兄貴に抱いていた憧憬を隠し切ったところに、それは表れている。

 若いマルコムXがやってきた、1940年代初めのハーレムは、20年代のジャズ・エイジの残光のなかに生きていた。街全体が脈動していたような、あの時代は去りつつあったけれど、記憶にはなお新しく、「生き証人」たちはなお元気であった。まどろみながら、夢にしがみつく。そんな中途半端な時間を、ここの人々は生きていた。

 1942年、17歳のマルコムXは鉄道勤務をやめて、七番街のナイト・スポット「スモールズ・パラダイス」で、午後当番のウェーターになる。それはチップのほとんどない時間帯である。そこは、彼がかつてハーレムではじめて連れていってもらった店でもある。ここで出会うハーレマイト(ハーレムの人間)たちの酒の飲み方に感動したものである。客は小声で静かに語り合い、バーテンダーは、流れるようにスムーズに客をさばいていく。「スモールズに入って5分したら、ボストンもロクスベリー(ボストン郊外の黒人住宅地)もおさらばだった」と後に述べている。こんな風だから、スモールズに雇われるんだったらなにも要らないというぐらいに有頂天になっていたにちがいない。

 マルコムXにとって、ハーレム「学校」の入り口になったスモールズがオープンしたのは、1925年のことである。デューク・エリントンが、この店に次のような賛辞を寄せている。「スムールズには行かなくては。みんなが立ち寄る場所だよ。ダウンタウンから来るミュージシャンもたくさんいる。ジャック・ティアガーデンはトロンボーンを持ち込んでいたし、ハリー・グッドマンも、ベニー・グッドマンも、レイ・ボーダックも、それから他にもいろんなやつらがいる。日曜になれば、ゲスト・バンドが雇われて、それもこれ以上ないバンドで、いつだってお祭り騒ぎさ」

 デュークは、翌26年にオープンした「コットン・クラブ」に5年間出演したが、そこの客は白人がほとんどであった。一方、同じ年に店を開けた「サヴォイ・ボールルーム」には、よほど勇気がないと白人は行けなかったという。この2店は、レノックス街の142丁目と141丁目に、隣同士のブロックで競い合っていた。

 20年代の後半、サッチモことルイ・アームストロングは、それまで活躍の舞台にしていたシカゴから、ブロードウェイのショーに出演するため、ニューヨークへ向かった。エージェントからはひとりで来いと言われていたのだが、キャロル・ディカスン・バンドの全員を引き連れ、オンボロ自動車4台に分乗してシカゴを出発した。途中ナイアガラの滝を見物し、ニューヨークに着いたときには、クルマは2台になっていた。あとの2台はエンジンが焼き切れてしまったので、途中で捨ててきたのである。

 エージェントは、この大所帯を見て怒り狂った。サッチモのほうは平気なもので、「どっちみち同じだよ。こいつらもニューヨークへ来たんだ。仕事を探してくれ」と言い放った。なんのアテもなく連れてきたわけである。それから2日後には、バンド全員と一緒に、ブロードウェイのオーデュボン劇場に出演している。幕が上がり、なにも知らされていなかった座付きバンドが、オーケストラボックスからびっくりして眺めるなか、『セントルイス・ブルース』が場内に響き渡った。満場の拍手を後に、次に一行はハーレムの「サヴォイ」へ向かい、つづいては、同じくレノックス街にある「コニーズ・イン」の舞台に立った。1日のうちにスリー・ステージをこなしたことになる。なお、サッチモは、このとき、ニューヨークに半年居つづけた。

 ジャズ・エイジのハーレムは豊かで、そして気楽であった。当時の繁華の中心は、ハーレムを縦に走るレノックス街、七番街、八番街の界隈で、これらと交差する125丁目の南側と北側に、500に及ぶジャズ・スポットが散らばっていた。なお、日本でもよく知られる「アポロ劇場」は、七番街と八番街の中間の125丁目という絶好の場所に位置している。なお、現在、これらの大通りはそれぞれ、別の名前になっている。125丁目が、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア大街、七番街は、黒人の地位向上のために議会活動で活躍した連邦議会議員の名前をとって、アダム・クレイトン・パウエル・ジュニア大街、そして八番街が、19世紀に奴隷解放のために活躍した解放奴隷を記念して、フレデリック・ダグラス大街という具合である。いずれも長ったらしい名前で、いまだに街に馴染めないままでいる。
 
ビリー・ホリデイの肉声■
 
 アポロ劇場の裏口の近くに「ブラドック・ホテル」がある。マルコムXが若い頃、そこのバーは、ミュージシャンの溜まり場として知られていた。彼はハーレムにたどりついた最初の晩にもう、そこで、ディジー・ガレスピー、ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルドらの姿を認めたし、ダイナ・ワシントンが出ていくところにでっくわし、客のひとりが、ダイナはこれから「サヴォイ」に出るんだよと言っているのを耳にした。当時の彼女は、ライオネル・ハンプトンのバンドのヴォーカルであった。後にマルコムは、ダイナとも、レディ・デイことビリー・ホリデイとも親しく知り合うことになる。もっとも彼自身はずっと、無名の遊び人にすぎなかったけれど。

 いまでは信じられないことだが、ハーレムでは、ハレとケが隣り合い、互いに手を握るほどに近しい間柄であった。この小さな村に世界的なスターたちがかたまっていて、人々は夢と現の狭間で日々を送っていた。若いマルコムは、この魔力にとらえられ、金縛りのような精神状態だったにちがいない。ハーレムは最高であり、身も心も捧げて悔いないと。「スモールズ」には毎日、出勤時間のずっと前から出てきていた。自分がこの渦のなかにいるのが、なによりもうれしい。

 ジャズ・エイジの「信じがたさ」が嘘でも幻でもなかったことについては、ビリー・ホリデイの肉声の証言が残っている。1915年生まれの彼女は、9歳のころ、七番街に近い145丁目に住んでいた。ハーレムの沸騰はすでにはじまっていた。母とふたりの生活である。父親は、この母娘を捨てて、他の女と結婚しようとしていた。幼いビリーは、娼家のマダムの走りづかいをしていた。家は貧しかったけれど、お金のためではなかった。ベシー・スミスとサッチモのレコードを、マダムの蓄音機で聴けたからである。

 ある日、とてもお腹が空いて、呼吸もできないほどになった。ひどく寒い冬の日である。ビリーは七番街を下りながら、ジャズ・ジョイントをかたっぱしから訪ね歩き、仕事の口を探した。やっと、彼女の言うことに耳を貸してくれたのが「ロッグ・キャビン・クラブ」のマネジャーである。

 幼いビリーは、彼に言う。「私、10セントもないの。ジンを飲ませてちょうだい」。出された酒を一気に飲み干す。彼女にとって、生まれて初めてのアルコールであった。

 「私はダンサーよ」

 「じゃ踊ってみな」

 フロアに出て踊り出すと、マネジャーは首を横に振る。

 「だめだな」

 「歌えるわよ」

 「じゃ歌ってみな」

 ビリーが歌い出すと、そこに居合わせた客たちが、いっせいに飲むのをやめて振り向き、やがて歓声をあげはじめる。

 「お嬢ちゃん、ぼくの負けだよ」

 そう言ってマネジャーはサンドウィッチをくれ、客たちからのチップは18ドルにもなった。スターになった後、このエピソードを語ったビリー・ホリデイは、次のように結んだ。「私はドアを走り出た。チキンを買った。七番街の家まで走って戻った。母と私に、その夜は食べ物があり、その後はずっといままでかなりちゃんと食べているわね」

(この話は、先のデュークの賛辞とサッチモについてのエピソードと合わせ、ジャズ批評家のナット・シャピロとナット・ヘントフが編集した、聞き書きジャズ史『私の話を聞いて』Hear Me Talkin' to Ya から採ったものである。この本は、1955年に初版が出ているが、ジャズの巨人たちの多くはなお存命中だったのである。彼らの証言には、研究書が束になってもかなわない迫力がある。なおここでは、ペンギン・ブックス1962年版に拠っている。)
 
もう少し早く生まれていたら■
 
 ビリー・ホリデイもそうだが、ハーレムで名声を得ると、彼ら彼女らは他の土地へ出かけていって公演をする。しかし、「故郷」へ戻ってこない者はいない。出ていっては戻ることの繰り返しである。マルコムXがハーレムへやってきたころは、その伝統がなお守られていた。それによって、この街の華やぎがつくられつづけた。

 ハーレムを発光させつづけた「光源」は、もうひとつある。

 1921年のブロードウェイで大ヒットした『シャッフル・アロング』というミュージカル・ショーがハーレムを爆発させる引き金になったと言われている。脚本、プロデュース、キャストすべて黒人だったが、観客の大半は白人で占められた。この後ブロードウェイでは、「ニグロ・ショー」がつぎつぎに上映された。それまで未知のものだった黒人の音楽とダンスは、白人の好奇の眼にさらされることになった。

 やがてハーレムには白人を対象にしたクラブが生まれ、スリルを求めて集まる者は増えつづける。彼らの主な関心は、黒人のエンタテインメントから発散される、濃密で奔放な性的匂いであった。折りからアメリカ経済は好況をつづけていて、一方では禁酒法が、人々の欲望を抑圧するどころか逆に昂進させていた。ハーレムへ行けばハメをはずせる。女がいるし、酒がある。白人のハーレム行には、悪所通いの大胆と放埒があった。20年代には、この地域で白人を相手にするナイトスポットが、少なくとも11箇所はあった。

 日常の生活では分けられ隔てられて生活をしている黒人と白人が、夜の闇にまぎれ、ジャズを隠れみののように使って遭遇し、交錯する。ハーレムの住民たちは、酒に酔い好色な目つきをした外来者のなかに弱みを発見しては、狭い一画に閉じこめられて生きている自己の境涯を、彼らとの比較によって対象化する眼を育てる。そして、感性のレベルでの、自分たち黒人の優位を自覚しはじめる。こうして、この時代のハーレムは、後の公民権運動に感覚的基盤を与えたと見ることができる。

 もっとも、当面そこに生まれてきたのは、ハッスルと呼ばれる行為であり、ハスラーと称される人間たちである。マルコムXが憧れたのも、ハスラーである。その原型は、兄のアール・ジュニアが提供してくれていた。

 ハーレムの盛り場を巡った最初の夜に、マルコムはつぎのような結論を下していた。「この世界こそ私の属するところだった。その夜私はハーレマイトへの道を踏み出していた。ニューヨークの800万人のなかでもっとも堕落した、寄生虫のようなハスラーになろうと思った。800万人のうち400万人は働き、あとの400万人がこれとは別に生きているのがニューヨークなのだから」

 日々の労働に営々と従う者たち以外の半数が、ハスラー予備軍である。マルコムXはニューヨークにやってきて、自らが身を置く場を客観的に把握し、すでに憧れを抱いていたほうの生き方への傾斜を深めた。

 ウェーターとして迎えられた「スモールズ・パラダイス」こそ、ハスラーになるために修練を積む場所に他ならない。本物のハスラーの客と知り合い、彼らの薫陶を受け、同様に、客になって入ってくる警官たちを見分ける術も身につける。彼は、私服の刑事を嗅ぎ分けることに驚くばかりの才能を持っていて、それを存分に発揮した。生まれながらにハスラーの素質に恵まれていたのである。

 マルコムXがもう少し遅く生まれていたら、偉大な黒人政治家として活躍したにちがいないと言われる。逆に生まれるのがもう少し早かったなら、偉大なハスラーになって、ハーレムの夜の世界に君臨したのではないか。

大きな夢に向かわせる応援歌■

 ジャズ・エイジがハーレムにもたらした、自由で気ままな気分と、きらびやかな外見とは、不道徳と不法行為を美化することになった。それほどに大きな影響力があったということである。

 「スモールズ」時代のマルコムXの心をとらえた老ハスラーのひとりに、フュークローズと呼ばれるスリがいた。彼は、白人がジャズ・クラブに群れた20年代に「若手」として鳴らしたが、大恐慌のころにリューマチを患って以来、両手が使えなくなっていた。指の関節が折れ曲がり、それを見て、人は目をそむけた。

 フュークローズは、毎日、午後6時ごろに「スモールズ」に現われて、堂々と席に着き、昔話をはじめる。すると、常連のだれかれが、ウェーターのマルコムに向かい、この老人に酒と食事を出すように命じる。老スリは物乞いをするでなく、礼を述べるわけでもない。悠然とメニューを点検し、注文をし、これに応えてマルコムは、キッチンのコックに、フュークローズが来ているから最高のものをつくってくれと告げるのである。まるで大富豪のようにうやうやしくサービスされながら一夕を過ごすのが、この人物の日課であり、それを可能にしつづけるのが、居合わせる客と従業員たちの務めであると了解されていた。

 マルコムXは述べている。「ある意味では、我々はその場所に詰め込まれ寄り集まり、お互いに身の安全とぬくもりと慰めを求め合っていたのだが、そのことに気づいていなかった。我々のだれもが、宇宙を探索し、ガンの治療法を発見し、産業をおこしたかもしれないのに、実際には、白いアメリカの社会システムのなかの黒い犠牲者になっていたのだ。また別の意味で、かつてのスリの親分の悲劇は、仲間の老ハスラーたちには、『すべては神の思し召し』を象徴するものでもあった。いまも多少なりとウサギを捕まえられるオオカミたちにとって、牙を失った老オオカミがなお食べるのに不自由しないことが大切なのだ」

黒々ところがる地雷■

 「遅い午後にはいつでも、セントラル・パークの上のハーレムでは、レノックス街、七番街あるいは八番街沿いの、とくに110丁目から125丁目あたりに、キャディラックが集まりはじめる。カタギのマーケットではおそらく15000ドルはするカスタム・エルドラードである。特注のサンルーフを載せ、リア・ウィンドウを炎の形にカットして、車内の明かりはブルーと赤とイエロー。運転するのは、大きな危険を冒し、瞬時の成功をわがものにしようとするハスラーたちである。最新流行のクルマの他にも、女の毛皮、腕時計、ステレオ・テープ・デッキ、ライターと一体型の小型テレビ、それぞれが先端のトレンドである。それらはまた、もうひとつの『アメリカの夢』を形作ってもいる。ジミーのハッスル、それはコカインである。これが専門の彼は、取引で、ときには週5000ドルを手にすることができる」

 「アメリカの夢」の裏側にはりめぐらされた悪行の隘路を、こうして、ハーレムの路上で垣間見ることがあった。

 先の記述は、もちろん、20年代のものでも、マルコムXがわかかった頃のものでさえない。『エスクァイア』誌1971年4月号に掲載された、ジミーと呼ばれるハスラーに関する記事の一部である。ハスラーが、ハーレムを代表する人格として、ずっと後までもてはやされたことを物語るものであろう。

 この記事には、コーク・ディーラーの「ジミー」の、ハスラーになる前からの友人の次のような証言がある。「ジミーはけっこう暴力的なんだよ。ヤツのタフネスは尋常じゃない。そうでなきゃやってられないだろうよ。ヤツの心持ちは完全にハスラーだね。生活のスピードを落とさなくても、長生きする道はあるはずなんだ。だから、たとえばレコード・ビジネスあたりに引き込もうとしているんだよ。数字にはめちゃめちゃ強いからね。だけどヤツは頭をかち割れるんだ。いざとなったら殺す。まだやってないだろうが。やれると本人が思っているかどうかも知らないけどね。だがオレは長い付合いだから、ヤツならやると思うよ」

 「ジミー」の心持ちは、マルコムXのそれでもあったにちがいない。ハスラーにとっては、刹那の感情に裏打ちされたスピードへの自覚と、状況を瞬時に切り開くための暴力の許容とは、不可欠の要素になっている。マルコムXを黒人の救世主、反人種差別主義の殉教者の列に加えるのは易しい。しかし、そうすることによって、この人物の内にある、絶望の果てに見えてくるはずの絢爛に対する渇望の意識が、すっかり抜け落ちてしまう。彼のなかには、この絢爛を見たいという、強い思いがあり、そのために生きていたとも言えるのではないか。彼を正義派のひとりに加えるのは間違いである。ハーレムは、マンハッタン島に黒々ところがる地雷へと形を整える。それを見据えるマルコムXの目は、まちがいなくハスラーのそれであった。

17歳のハスラーの誕生■
 
 マルコムは、1943年の初めに「スモールズ」を解雇されて、ハスラーへの道を歩みはじめる。このいきさつについては後に検討するが、ブルース・ペリーの伝記は「おそらく彼は注文をとる仕事にあきあきしたのだろう」と、17歳の若者のはやる心を言い当てている。マルコムが解雇後、喜び勇んでハスラーに投じていった事実から、こう類推しているのであろう。マルコムXは、「私は生まれて初めて、自由! という、あの偉大な感情を抱いた。いま突然に、私は尊敬する若いハスラーたちのなかまになったのだ」とまで述べている。

 どうすればハスラーに転身できるのか。第一条件は、ハスラーの友人を持っていることである。彼らは一種のフラタニティ(友愛組織)であり、困っているダチがいれば進んで助け、面倒を見る。マルコムの場合は、サミー・マックナイトという、別名「ひものサミー」と呼びならわされている「大物」と親交があった。

 この男が相談に乗ってくれ、まずランナーはどうかという話が出た。数字賭博の下っ端で、顧客をまわり、その日の賭け数字と賭け金を集めてまわるやくである。しかし、生活がなりたつぐらいの客数が揃うまで時間がかかるという理由で、このアイディアは放棄された。それではひもになれば、ともちかけられたけれど、そっちのほうの才能はないよと、マルコムのほうが尻込みをしたという。

 結局、マリワナの売人でまとまった。これならやれそうである。当時もこの麻薬は法律で禁じられていたが、マルコムには、「スモールズ」時代から、サツを本能的に嗅ぎ分ける自信があったし、ハスラーたちにツテが多いからバックアップしてもらえるはずである。

 「葉っぱ」の供給元は、主に中南米航路の商船の船乗りたちが務めていた。この方面にも知り合いが何人かいる。買い手のほうは、ミュージシャンの友人たちが頼りになる。マリワナは、ジャズ・ミュージシャンを介して普及し、アルコールと「葉っぱ」をやりながらジャズを聴くのが、このころのトレンドでもあった。マルコムは、この少し後には、ミュージシャンを巡業先に訪ねていって、マリワナを売り歩く行商も試みている。

 17歳のハスラーが生まれた。
 
1930年代のマリワナ■
 
 ルイ・アームストロングに、『マグルズ』という曲がある。また、1910年代から20年代半ばにかけてニューヨークを中心に活躍した、ニューオリンズ・リズム・キングスの曲にも、『ゴールデン・リーフ・ストラット』がある。さらには、『ドープ・ヘッヅ・ブルーズ』は、黒人ブルースのソングライターのなかでも傑出していたヴィクトリア・スパイヴィによる曲である。

 これらの曲名にある、マグルズ muggles、ゴールデン・リーフ golden leaf、ドープ dopeは、いずれもマリワナを指していて、ジャズの起源をたどると、ミシシッピ川の沼沢地に群生した大麻が浮かび上がるはずである。

 なかでも「マグルズ」の響きは、ニューオリンズでは、懐かしくいとおしいものと受け取られていて、これを低く発音すると、ジャズの葬送行進曲を想起するとも言われている。

 マリワナは、ジャズ・ミュージシャンとともにミシシッピ川を北上し、ジャズ・エイジのはじまりから30年代にかけ、両者は切り離せない関係にあった。音楽とドラッグが、アメリカの新しい感性にとって不可欠なのは、後の60年代のロック世代にとっても同様であった。

 ブルックリン育ちのバーニー・ブライトマンは、ハイスクールを卒業後、マンハッタンの繊維街で、問屋の発送係をしていた。週給8ドルであった。地元のダンス・コンクールで優勝し、その後、ハーレムのサヴォイ・ボールルームへ進出する決心をする。そこには踊りのうまい連中がたくさんいるそうだから、自分の踊りが通用するかどうか試してみたかったのである。

 16歳のユダヤ少年、バーニーは、ダチのサミー(ひものサミーとは別人)とつるんで、サヴォイへ出かけていって、ジャズとビートとダンスに全てをかける生活をはじめる。ある土曜日、家が近所なので顔見知りのテナー奏者が、フロアのふたりに近づいてきて、「ハイになりたくないかい。25セントよこしな」と声をかける。その通りにすると、しばらくどこかへ行っていたが、戻ってきて、細い紙巻きを2本手渡してくれた。バーニーとサミーは、トイレに入り込んで、これに火をつけた。

 「たいしたことなかった。それで、ダンス・フロアに戻って、バンドスタンドに近づき、アルト・プレーヤーの音を拾おうとした。そのとたんに来たね、ブーンて。私は閃光に打たれたみたいになって、身体が突然スウィングしはじめた。生まれてはじめての感じだった。音が私を鎌のように切り裂いて、音叉が宇宙のEコードに合わせて震えるみたいだ。繊維問屋の下っ端従業員の退屈もプレッシャーも、仕事の単調さもなにもかもが、うしろに飛びすさってしまう。少なくとも、IRT(地下鉄の路線名)に乗ってプルックリンへの家路に就くまでは、そうしていられた」

 1937年のトリップ初体験を、若かったバーニーは後にこのように回想している。

 大人たちはどうであったか。これについてはヘレン・ローレンスンの貴重な証言がある。彼女はシックな都市感覚を売り物にした雑誌『ヴァニティ・フェア』の編集長で、当時、エンタテインメントや文学の世界の人間たちの、いわゆる「カフェ・ソサエティ」の中心にいた。

 1933年に、ハヴァナのバーティで吸ったのが、初めてのマリワナだという。その後は、アパートに常備していた。マネーという名のハーレムのハスラーが、彼女のための売人であった。昼間は会社で編集業務に携わり、夜になると、ナイトクラブやパーティに出かけていくのが、この雑誌の編集長の仕事であり、マリワナが、昼と夜のつなぎ目の役割をしてくれる。つまり、夕方にアパートへ戻り、シャワーを浴びた後、夜用の衣装に着替える間に、一服するわけである。「おかげで、どんな疲労も消え失せ、夜明けまでつづくことも珍しくないダンスと大騒ぎにと備えるスタミナを回復できた」と述べている。

 ローレンスンの雑誌は36年に休刊になる(83年になって復刊)。2年後の38年、彼女は、ウェスト・ヴィレッジのシェリダン広場に面するナイトクラブの名付け親になる。もちろん、その名は「カフェ・ソサエティ」である。新しいクラブの企画段階から参加して、出演ミュージシャンのオーディションも主宰した。

 38年の大晦日にオープンしたクラブは、アメリカ共産党の活動資金をつくる事業で、ローレンスンは、当時の党委員長アール・ブロウダーから直接、手を貸してくれと要請されている。彼女自身は党員ではなかったが、シンパではあった。クラブのマッチには、The wrong place for the Right people とあった。これも、ローレンスンが考えたキャッチコピーで、素直に読めば「正しい人には向かない場所」程度の意味だけれど、Right people には「右の人たち」の含意もあるわけで、このクラブが、左につながっていることを知る一部の人たちだけに伝わる「暗号」が隠されていた。

 常連の客には、大統領夫人エレノア・ローズヴェルトをはじめとするホワイトハウス関係者(当時のフランクリン・デラノ・ローズヴェルト大統領は民主党)、ダシール・ハメットと共同生活をするリリアン・ヘルマン、あるいは、逃亡奴隷の息子でもある黒人俳優ポール・ロブソンなどがいて、多彩な顔ぶれが揃った。ニューディールの政府と、その周辺の知識人、アーティスト、エンタテインメント業界の関係者などとコミュニズムと結ぶラインのひとつがここにあった。

感情生活の内面■
 
 ところで、「カフェ・ソサエティ」いちばんのスターは、ビリー・ホリデイであった。このクラブで名声をつかんだミュージシャンは少なくないけれど、彼女はその筆頭に挙げられる。ビリーを聴くだけのために毎夜通いつづけた客もいた。

 さえないクラブで歌っていた彼女を、ベシー・スミス以来の逸材と見抜いて連れてきたのは、当時はまだ20代のわかものだったジョン・ハモンドである。彼は60年代になって、ボブ・ディランをCBSレコードと契約させ、メジャー・デビューさせたプロデューサーとして、ふたたびポピュラー音楽史に登場することになる。

 ヘレン・ローレンスンは、その著書『ホイッスル・ガール』のなかで、ビリーが『ストレンジ・フルーツ』を歌うときの情景を描いている。曲名の「奇妙な果実」には、当時まだ南部では行われていたリンチを受けた後に、木に吊るされる黒人の死体という、裏の意味がある。

 この曲がはじまると、ビリーの顔に当たるスポットライト以外は、場内の明かりが全て消え、テーブル・サーヴィスが中断される。甘く苦く、すすり泣くように歌うラストでは、きまって、客席が一瞬静まりかえり、人々は茫然と、身体を小刻みに震わせていたという。

 ジャズは黒人の内面へ、白人を否応なく引き入れた。白人は内側から武装解除されはじめている。アメリカ社会にとって、この音楽がもっとも偉大な点は、人種の障壁をそれと知らずに乗り越えさせてしまったところにある。それがつまり、50年代になってはじまる公民権運動の、見えない根ということである。

 一方、白人の魂を虜にする側も、けっして平静ではいられない。ビリーがこのクラブで歌いはじめたのは23歳のときだが、彼女はすでに十代のころからマリワナに浸っていた。気分にむらがあって、自分の殻に閉じこもりがちな、むずかしい人間であった。今なら鬱と言われたのかもしれない。後にヘロイン中毒になって三度逮捕され、ニューヨークのステージから追放されることになる。このころすでにヘロインにも手を出していたと想像できる。

 このクラブの経営にあたっていた、靴のセールスマンあがりのバーニイ・ジョゼフスンは、出演者がマリワナを吸っている現場を見つけしだい解雇する方針だったが、これにはなんの拘束力もなかった。ローレンスンは、女性用のトイレで、よくその匂いがするのに気づいていた。男子用のほうでは、ミュージシャンたちが、一本のマリワナ煙草を回して吸いながら、コロンをスプレイしては、ジョゼフスンが突然入ってきてもバレない用心をしていた。

 マリワナの煙が漂い、鼻が匂いを嗅ぎとれる範囲にいる人間たちの間には、ゆるやかな仲間意識が生まれる。リラックスして、自在に音を操れると、ミュージシャンたちは少なくとも信じることができる。黒人は鬱屈した生活をしばし忘れ、白人は、背負わされているピューリタニズムという重荷から逃避することができる。マリワナが精神の未開部分に踏み入らせてくれるドラッグであることによって、人は日常から隔絶された気分になる。

 これが違法な薬物とされたのは1937年のことだが、おおっぴらに吸うものではなかった。マリワナを意味する隠語がいくつもあり、それは、非公然性のなによりの証しであろう。スラングのなかでも、30年代に頻繁に用いられたのは、リーファー reefer およびウィード weed であった。

 なお、カウンターカルチュアの重要な要素として、マリワナが大衆化するのは60年代である。当時のスラングを収集した『ジ・アンダーグラウンド・ディクショナリー』=ユージン・E・ランディ著、73年刊=には、マリワナの別称として、アカプルコ・ゴールド Acapulco gold にはじまり、イエスカ yesca まで、じつに85、さらにマリワナ煙草のそれとしても24もが収録されている。

■1943年の暴動

マルコムXの『自伝』を調べても、やはりリーファーがもっとも多い。マリワナという正式名称は、大麻を乾燥させて、種子と小枝を除去した塊のままの状態を指す場合にだけ用いられて、煙草のように巻けば、つねにリーファーである。

  彼がリーファーの売人になるのは1942年だから、すでにマリワナは、法を犯してしか吸えなくなっていた。

  マルコムがはじめて25口径の拳銃を所持するようになるのは、マリワナを売り歩くようになってからのことである。ジャズと「葉っぱ」が相携え、心を飛ばしてくれた、幸せな時代は過ぎようとしていた。いまやマリワナの売買は、17歳の黒人がハーレムの闇を駈け抜けて生計を立てるための、ヤバいハスル、つまり違法なビジネスになっていた。

  ハーレムが変質するのは、このころである。白人の商店主や警官たちを標的にする黒人暴動の最初のものが、すでに35年に勃発している。マルコムがハスラーに転身した翌年の43年夏に、さらに大規模な暴動が発生する。

  このときのきっかけは、外出中の黒人兵士、ロバート・J・バンディが、黒人女性を逮捕しようとする白人警官の警棒を奪い、それを使って殴りかかったため、撃たれて死んだという噂がひろまったことである。実際には、この兵士は肩に傷を負っただけだったが、母親の目の前で殺されたと、誤って伝えられたのを信じた黒い暴徒たちが、店々のウィンドーを叩き割り、略奪を行った。アメリカの都市暴動の、少なくとも表面的な様相は、その後も変わっていない。それはスラムの精神状況が不変であることを示しているのであろう。

  マルコムXは、セント・ニコラス街を歩いているときに、この43年暴動を目撃した。ニューヨークの警官が総動員されたかと思うくらいに、勃発後1時間もしないうちに、ハーレムはブルーの制服だらけになった。当時のニューヨーク市長、フィオレロ・H・ラガーディアと、NAACP(全米国人向上協会)の事務局長ウォルター・ホワイトが、真っ赤な消防車に同乗し、ラウドスピーカーで、全ての黒人は自分の家から出ないようにと呼びかけてまわった。

  この二度の暴動によって、ほとんどの白人がハーレムの夜から退いていった。ハーレムは「怖い場所」、それが常識になった。サヴォイ・ボールルームは、ラガーディア市長によって閉鎖された。ニグロと白人女とを一緒に踊らせないためだと、マルコムXは「真の理由」を説明している。

  当時は、第二次大戦中でもあり、とくに軍部は、兵士のハーレム立ち入りに厳しく警告した。兵士がハスルにまきこまれないように、監視を怠らなかった。マルコムが、「スモールズ・パラダイス」をやめてハスラーの世界に身を投じたきっかけも、もとはと言えば、軍の監視網にひっかかったことである。バーテンダーだった彼は、軍が放ったスパイとも知らずに、ある男に、ただの親切心から娼婦の電話番号を教えてやった。まもなくドジを踏んだことに気づいて、店に迷惑がかかるのを恐れ、店主に告白したのである。

闇の履歴■

  白人の金が落ちなくなって、ハーレムの賑わいが急速にしぼんでいく。マリワナの売人であれ、娼婦のヒモであれ、大きなダメージを受けることには変わりがない。こんなときにハスラーの仲間入りをしたマルコムXは、ついていない。そこで、彼は「職種」をつぎつぎに変えざるをえない。なかなか生活が安定しなかった。

  強盗もした。この仕事では、いつも持っている25口径のオートマティックに代えて、32、38、45など大口径の銃を携行する。「デカくて黒い穴(銃口)が目に入った途端、被害者の顔は歪み、口元がダラリと垂れるのが見える。私が口を開くと、相手は遠くの声を聞いているようになって、こちらの言うことをなんでもきくのだった」と、強盗体験を語っている。

  マルコムXは、十代ですでに、銃の威力をわきまえていたし、物理的な力が人間をなすがままに支配する事実も、しっかり見聞きしていた。

  弟のレジナルドと組んで露天商をしたこともある。工場から仕入れた安物を、ハーレムの路上で高く売りつけるいんちき商売である。

  数字賭博の運び屋も経験することになる。このハスルは、ハーレムで唯一落ち込みのない「職種」であった。このギャンブルには、ハーレムの住民たちが変わらず熱中したからである。賭けるほうは、3ケタの数字を書いた紙切れを、下っ端の走り遣いのランナーに渡して、その際に、賭け金も一緒に手渡すのである。最低で1セントから賭けられた。この紙切れは、バンカー(銀行家)と呼ばれる胴元の元に集められる。あたり数字を決める方法はいくつかある。たとえば、翌日のニューヨーク株式市場の出来高総額の下三桁といった、無意味な数字が当選番号になっていたりする。当選者には当然、配当がある。

  ハーレムはいくつかのシマに分かれていた。それぞれの数字賭博胴元は、一定期間だけ、白人のマフィアから縄張りを預かるかたちであった。マルコムの仕事は、ベッティング・スリップ(賭け金額を書き込んだ紙切れ)を詰めた袋を持って、ハドソン川にかかるジョージ・ワシントン橋をバスで渡り、ニュー・ジャージー州側で待つ中継役の男に、これを渡すというものである。地元の警察の目をくらますための小細工だったにちがいない。

  セックス・ビジネスにも関わったことがある。45丁目とブロードウェイの角にあったアスター・ホテルの外で、白人の客を拾ってはハーレムの娼家へ送り届けることもしていた。彼の襟元につけた白い花が目印だったという。なんとのどかな時代であったろう。

 マルコムの最後のハスルは、『自伝』の記述によれば、密造酒の運搬であった。これは、第二次大戦が終わるわずか前の45年8月にはじめて間もなく、雇い主のユダヤ人が打ち合わせの場所に現われず、あっけなく終わった。「その後彼からの連絡は絶えた。聞くところによれば海に放り込まれたらしい。私の知るかぎり、泳げないはずだ」と記されている。

  マルコムXのハスル歴を見ると、ケチな仕事ばかりである。ほとんどが使い走りの類いである。例外は強盗だが、これにしても、先輩のサミー・マックナイトと組んだもので、一本立ちはしていない。このころのマルコムは、これから修業して、やがては叩き上げのハスラーになっていこうとする、いわば序の口だから、これも仕方がないのであろう。

  娼婦のヒモにはとうとうならなかった。これは、「そっちのほうの才能がないからだ」と先に述べているが、謙遜などではなくて、この誇り高い人物の、精いっぱいの虚勢だったのではないか。ヒモは、いわばハスラーのゴールデンルートであり、女に稼がせて上前をはねるのにとどまらなくて、彼女たちの心を完ぺきに支配できるようになるまでには、それなりの実績を積む必要がある。マルコムのようなチンピラでは、話にもなにもならない。だから強がってみせる必要もあるわけである。

ハスラーの美学■

 へレン・ローレンスンは、『ヴァニティ・フェア』の編集長をしていた1935年に、超大物ハスラーのエルズワース・バンビー・ジョンソンに、七番街と126丁目の交差点に面した「アルハンブラ・バー・アンド・グリル」で出会い、親しい友人になった。彼が68年7月に心臓発作で死んだ後に、彼女は、彼に対する畏敬の念をこめ、その交友を振り返る一文を書いている。

 彼女が初めて会ったころのバンビーは、まだ20代末の若者だったけれど、すでにアッティカをはじめ近隣の刑務所を総なめにする、輝かしい経歴を持っていた。彼は5人の娼婦を抱える、一流のヒモである。彼女たちはみな、バンビーと愛し合っていると思い込んでいたという。そのひとりで、ロウア・イースト出のブロンド、マージーなどは、彼が10年の刑を宣告されて入獄すると、自殺を遂げている。

 すご腕のハスラーは、いつもは礼儀正しく親切で、女の煙草に火をつけるのを忘れない紳士でもあった。当時のアイドル、シャーリー・テンプルの写真を額に入れて飾るセンチメンタルな側面もあった。刑務所では読書に励み、おかげで、哲学と歴史では学者はだしの知見を誇った。愛と友情をテーマに、よく詩を書いたものである。

 夜のハーレムで遊ぶのがシックだった30年代のことだから、こんなにすばらしいハスラーが友人のなかにいて、ローレンスンは、とても鼻が高かったにちがいない。彼女は、この黒いボーイフレンドが撃たれる現場に、二度も居合わせた。それだけの危険を犯してまで付合う価値があったわけである。もちろん、仕事の糧にもしたであろう。

 レノックス街を走るクルマに、ローレンスンが同乗しているとき、突然、白いキャディラックが前に停まり、銃を抱えた男が飛び出してきたことがある。その男の撃った一発は、彼女の耳元をかすめて飛んだ。バンビーは車外に飛び出すと、相手の銃に向かい走り出したのである。このときの彼は丸腰であった。「だれかおれにジンジャエールの瓶を投げてくれ」と叫びながら走る。弾丸などまるで恐れていないかに見える。撃ちつづける相手は、信じられない思いだったにちがいない。とうとう弾倉が空になり、エンジンをかけたままにしていたクルマに慌てて戻って、逃げ去ったという。

 「冷えた鋼鉄のように」目を光らせて戻ってきたバンビーに向かい、シックな白人女ローレンスンが訊ねる。

 「あなた、恐怖ってどんなことか知らないの?」

 すると、黒人ハスラーは答える。

 「まあ聞けよ。こういうことになると、ぼくの身体を、冷たい風がそよそよと吹き抜けるみたいなんだ。Man, it's beautiful.(マーン、イッツ・ビューティフル)……」

 これをハスラーの「美学」と呼ぶのであろう。いまでは跡形もないけれど。

 ヴァイオレンスだらけの稼業のことを、この白人女が口にすると、バンビーは、次のような本音を口にしている。

 「たしかにおれは、盗っ人でヒモで、ヤクザな野郎さ。じゃ、あんた、このおれに何をさせようっていうんだい。グランド・セントラル駅へ行って、荷物運んで、はした金もらえってのかい。それともアフリカへ帰って、ズボン脱いでジャングル走れってかい。ラッキー・ルチアーノ(マフィアのボス)だったらウォルドーフ(当時は最高級ホテル)で暮らせるけど、おれがいくら金稼いだって、あすこへ入っていって部屋ないかとは言えないんだよ。鏡を覗くたびに見えるのは同じ黒い顔さ。……ずっと黒のまま死んでいくことしかできない。白い連中がおれたちに残しておいてくれるのは、暗黒社会だけさ。連中のおかげで、少しでもガッツのあるニガーは、当然、盗っ人とヤクザになるってわけだ」

 この論理は、マルコムXのそれと重なり合う。マルコムのほうは、これを堂々と実践できるまでには、まだ修業が足りないだけである。シンシン刑務所の看守のひとりは、この偉大なヒモに語りかけ、「エルズワース・ジョンソンよ、おまえは、世が世なら、偉大な黒人の指導者になれたろうにな」と言ったという話が残っている。この言葉を、だれもが理解するまでには、まだ長い時間が必要であった。

仁義に欠ける行為■

 さて、1945年が終わらないうちに、マルコムXは、あれほどに憧れて住んだハーレムにいられなくなる。ハスラーの仁義に欠ける行為をしたと、彼自身は認めていないけれど、そのように思われたために逃げ出さざるをえなくなった。

 「アスファルトのジャングルにいるハスラーにとっては、『面子』と『名誉』とが重要だった。ハイプされた、つまり、してやられたりコケにされたことが知れ渡るのを許すハスラーはいない。ましてや、ハッタリにひるみ、脅しを恐れ、勇気に欠けているなどと、おおっぴらに言われるなどごめんだ」(『自伝』)

 マルコムXは、ウェスト・インディアン・アーチーという名の老ハスラーと「面子」と「名誉」とを張り合い、身動きがとれなくなる。アーチーは、マルコムがバーテンダーをしていたころからの旧知で、シンシン刑務所から出てきてから、数字賭博の胴元に雇われていた。この人物は抜群の記憶力の持ち主で、賭けを集めて歩くランナーたちのなかでもエリートであった。彼には、ベッティング・スリップなどいちいち書く必要がなく、すべての賭け数字を記憶できた。いつも札束を持ち歩いていて、当選者が名乗り出れば、その場で配当を渡す。まるで自販機並みの手軽さとスピードが客に喜ばれた。

 アーチーのサーヴィスを受けられるのは、選り抜きの顧客だけで、マルコムもそのひとりであった。ところが、45年の秋のある日、彼が賭けを当てて300ドルの配当を受け取った直後に、アーチーが拳銃を持って、金を返せと迫ってきた。マルコムが賭けてもいない当選番号をカタって、金を騙しとったというのである。

 こうなるとアーチーの「面子」と、マルコムの「名誉」とがかかっているから、どちらにしても後へ引くわけにはいかない。この噂はたちまち広まった。翌日の正午までに返済しろと、期限切られた後のマルコムの行動が興味深い。

 彼はこの日、ジーン・パークスという「ハーレム史上最高の美人のひとり」と、52丁目の「オニックス・クラブ」へビリー・ホリデイを聴きにいく約束を前々からしていた。ふたりは、どちらかが数字賭博で当てたらごちそうすることにしていたのである。

 パークスはサラ・ヴォーンとも共演したことがあり、ふたりにとって、このクラブは最高のシチュエーションだったのに、とんでもないことになってしまった。それでもマルコムは敢えて出かけていく。彼はコカインを嗅ぎ、クラブのトイレでもコカインの入った小箱をとり出して憂鬱な気分を引き立てようとする。

 ともに、ビリー・ホリデイとは友だちで、ビリーは、ふたりが席に就くのを見ると、さっそく、マルコムが大好きな『ユー・ドン・ノウ・ワット・ラヴ・イズ』を歌ってくれた。歌い終わるとふたりのテーブルまでやってきて、マルコムの窮境を直感しながら、得意のワイセツ表現で、なにか不都合があるのかと問いかけたという。

 この後マルコムは、ハーレムのバーでパークスと一杯やり、彼女をクルマで帰らせた。その後に、アーチーが同じバーに現われて、一触即発の危機になるのだが、周囲のとりなしでその場はおさまった。

 ひとりになったマルコムは、阿片、ベンゼドリン(覚せい剤)、あるいはマリワナと、次ぎからつぎへと薬物を消費しつづける。こうして気分を無理にハイにしておいて、いつもの「溜まり場」を、何食わぬ顔をつくってまわる。自分は負け犬ではないことを誇示するためであった。

さらば、ハーレム■

 ここは、ジャングルである。弱肉強食の非情な世界では、いったん背中を見せればもう負けになり、二度と立ち上がれない。もはや友だちもひとりとしてアテにできない。親しかった人間たちは、どこでも、マルコムXを遠巻きにして近づこうとはしない。アーチーと彼がでっくわせば、かならず撃ち合いになるであろう。そうしなければ決着がつかないのを、だれもが知っている。

 希望のない境涯を忘れさせてくれたジャズと麻薬は、絶体絶命に陥ったいま、最後の逃げ場になった。マルコムは、始まりも終わりもないタイムレスネス(無時間感覚)にとらえられた。後に当時を回想して、「一日が5分のように思えたろう。あるいはまた30分が一週間みたいだったかもしれない」と述べている。

 マルコムは追いつめられていた。アーチーが宣告した期限が過ぎて、あるバーで、彼は見知らぬハスラーに、ナイフを向けられ、逆に撃ち殺しかける。銃をもっていては危ないとさとり、店にいた別のハスラーにこれを渡した直後に、警官たちが店に入ってきて、身体を調べられる。銃を持っていると疑われたのである。間一髪で逮捕を逃れた彼に、警官のひとりが忠告する。「俺がお前だったら、街を出るだろうよ」

 少し前、マフィアの博打打ちをホールドアップした黒人に間違えられ、イタリア系の男に殺されかけたのを思い出す。ハスラーの行き着く先は、逮捕か、さもなければ、仲間内の殺し合いかである。どちらかが我が身に迫っている。この春、20歳になったばかりの若者は、それを感じとる。マルコムは虎口を脱するようにして、姉のいるボストンへ逃れ、そこで盗みをはたらく。こうして遂に刑務所行きの「勲章」を手にする。

 マルコムのニックネームは、デトロイト・レッドである。ミシガン州のデトロイトに近い田舎から出てきて、髪が赤っぽいところからついた。「赤毛のデトロイト」は、ハーレムに鍛え上げられた。そして彼には、黒人の置かれている環境が身に沁みてわかった。いったんハスルに身を投じた彼には、もはやカタギの道は残されていない。ここに、後年のマルコムXの原点がある。彼は、宗教家や革命家である以前に、生きつづけることの困難が骨身に沁みているハスラーなのである。

墜落は突如として■

  1954年6月、マルコムXはほとんど10年ぶりにハーレムに戻ってきた。かつてのハスラーは29歳になり、イーライジャ・モハメッドが率いる宗教集団「ネイション・オヴ・イスラム」、一名ブラック・モスレムの教導師として登場したのである。窃盗の罪でマサチュセッツ州の刑務所に服役中に入信したマルコムは、教団のなかでたちまちに頭角を現わした。出所後まだ1年にしかならないが、ニューヨーク第7寺院の責任者に任命され、赴任してきたというわけである。教祖のモハメッドがもっとも期待をかける人材のひとりであった。

 ハーレムに帰った彼は、青春の日の思い出を探し求める。ハスラーへの道を手ほどきしてくれた「ヒモのサミー」のその後はすぐにわかった。彼は、ヒモ稼業をやめて数字賭博に手を染めたが、その後自分の部屋で死んでいるのを発見された、という。しかし、10年前にマルコムをハーレムから追い立てた「ウェスト・インディアン・アーチー」の行方は、杳として知れなかった。ある日、彼の寺院を訪れた老人が、ブロンクス区の住所を手渡してくれながら、アーチーが病気だと告げた。さっそくタクシーを飛ばして病床を見舞い、ふたりが仇敵となるきっかけをつくった、数字賭博のあたり番号をめぐる誤解を清算した。アーチーには人生の時がもうあまり残されていない。そのことを悟ったマルコムは、彼と面と向かっていることに耐えられず、早々に別れを告げた。このシーンは、スパイク・リーの映画に、ややセンチメンタルに再現されている。

 懐旧の情に溺れているには、彼はあまりに攻撃的である。さらに、状況が急転しようとしていた。マルコムがハーレムに赴任してくる前の月に、連邦最高裁判所は、学校に於ける人種差別が憲法に違反する旨の、歴史的判決を下していた。黒人が自分を主張できる時代がやっとこようとしていた。白人を排斥し、黒人の自治のための領土を要求するブラック・モスレムは、黒い人々の心に火をつけた。その教義は、ファナティックな黒人至上主義を前面に押し出している。自分たち黒人こそ神に一番近い存在だと主張する。

 その後10年近い間、マルコムXは、忠実できわめて有能な信徒として、一生懸命に、ブラック・モスレムの布教に努める。一方、彼には、過激な社会運動家としての注目が集まりはじめる。公民権運動をリードするマーティン・ルーサー・キング師の非暴力主義と対照されて、暴力の行使を辞さないラディカリズムが新鮮であった。黒人の「本音」を、白人社会に生のかたちでメッセージできる、数少ない人物である。

 しかし、マルコムXの墜落が、ここから突如としてはじまったのである。少なくともそのように見えた。

 1963年12月1日に彼は、マンハッタン・センターの教団集会で、「白いアメリカに下される神の審判」と題する演説を終えて、聴衆からの質問を受けた。ひとりの女性から、つい一週間前に起こったケネディ大統領暗殺事件についてどう思うかと尋ねられ、「ケネディには、にわとりがそんなに早くねぐらに戻ってくることがまったく予見できなかったのだ」という答え方を、彼はした。にわとりの譬えはブーメランのそれと同じで、だれかに対して悪行をはたらいたり、悪口を言ったりしたら、その報いがかならず自分に返ってくるという含意がある。つまり、自業自得と言うのも同然である。教祖モハメッドはすでに、全教導師に対して、ケネディ事件については一切のコメントを禁じる旨の命令を出していた。マルコムは、これに違反した廉で、90日間の教団活動停止の処分を受ける。

 その後二度と、彼がブラック・モスレムとして活躍することはなかった。ケネディをめぐる失言は、ほんのきっかけにすぎず、シカゴにある教団本部を支配する幹部たちの策謀に、マルコムははめられたものと考えられる。彼が名声をほしいままにしていることを嫉み、教祖に次ぐナンバー・ツーの座を占めるに至っている事実に危機感を募らせる「教団官僚」たちによって、追放処分にされたも同然であった。

 マルコムXは、翌64年3月、独自の宗教グループ「モスレム・モスク・インク」(MMI)を立ち上げ、ブラック・モスレムからの離脱者たちとともに宗教活動を開始し、イーライジャ・モハメッドに対決する姿勢を明らかにする。一方、政治家としては、アフリカとヨーロッパへ頻繁に旅行するうち、非抑圧民族の国際連帯に関心が向くようになる。白人への憎しみをむきだしにした、それまでの言説が影をひそめ、代わって、より幅広い層に訴えかける社会革命家の色合いを濃くしていく。

 しかしそれは、このハスラー出身の黒人に対する包囲網がいっそう強力になることを意味していた。「背教者」を絶対に許さないブラック・モスレムだけでなく、1953年以来その活動をチェックしてきたFBI、アメリカにとって不利益なすべての動きに反応することを任務とするCIA、あるいは、彼をゲットーの騒擾の黒幕と見なすニューヨーク市警、それら全てを敵にまわすことになるからである。

 ここでは、FBIが公表した局内文書(以下「ファイル」)を中心に、65年2月21日に殺害されるマルコムXの最後の一週間をたどることによって、その生と死の真実に近づく試みをしてみよう。

自宅が焼ける■

 その一週間のはじまりは、2月14日の自宅焼失である。クイーンズ区イースト・エルムハースト97丁目にあるマルコムXの家は、もともとブラック・モスレムが所有する不動産で、彼が教団を辞めたので返還要求が出ていたが、彼はこれに応じず、訴訟に持ち込まれていた。結局教団側の要求が認められ、15日までに明け渡すようにという裁判所命令が出て、彼は窮地に立った。その矢先の火事である。マルコムは、前日の13日に、ロンドンからニューヨークに戻ってきたところであった。出火は、日付が変わってすぐの14日午前2時半ごろである。「ファイル」には、消防署に電話による火災の通報があったのは2時45分と記されている。

 火事を目撃した、隣人と思われる女性の話として、ガラスが壊れる音で目を覚まし、窓の外を見ると、マルコムX家の居間の窓に丸い穴があいていて、室内は火に包まれていたが、同家の周りに人影は見えなかったと伝えている。

 ふたり目の目撃者は、ちょうど通りかかったタクシーの運転手で、生け垣が燃え上がっているのに気づいてクルマを停め、乗客と一緒にその火を消していると、ガラスの割れる音が二度聞こえた。家の側面で運転手が次ぎに見たのは、裏手から噴き出している火であった。つづいて彼は、玄関のドアを叩く。と、ほとんど同時に内側から人の声がした。それで住人が目覚めていることを確かめてから、火災報知器を探しにクルマを走らせたという。

 「ファイル」のこの部分では、出火当時に、走り去るクルマや不審な人間を見た者はいないことが強調されている。

 火は居間に集中していて、一家6人、つまりマルコムとベティ夫人、それに生後6ヶ月から4歳までの女の子4人は、裏口から脱出し、消防車が到着した2時50分には、裏庭にいたという。白いローブをまとい、黒いアストラカン帽を頭に載せたマルコムの顔に微笑が浮かんでいるのを、消防士のひとりが目撃している。また別の消防士は、家のなかに入ったときに、書籍が非常に少ないことに驚いている。マルコムが本の虫であることは、よく知られた事実で、火事の前にどこかへ移していたとも考えられる。

 火災現場から回収した証拠品として、次のようなものが列挙されている。

 バルコニーから、底にガソリンの入ったウィスキー・ボトル。瓶そのものは焼け焦げているけれど、置いてあったあたりは燃えていない。

 娘たちのうち、上の三人が眠っていた寝室からも、ガソリン入りのウィスキー・ボトルが見つかった。これはドレッサーの上に立ててあり、栓はしっかり締めてあった。マルコムX夫妻は、自分たちを陥れるために、だれかがニセの証拠を持ち込んで置いたのだと非難した。しかし、この瓶の周囲は火事の煙による「灰」に覆われていたのに、瓶の底はきれいで、出火前からそこにあったとしか考えられないという。

 家の裏手の地面には、ウィスキー・ボトルの首の部分があった。焦げた布が巻きつけてあり、周りの地面と塀に焼け焦げた跡がある。そこから15フィートのところが先の寝室で、窓ガラスが割れている。ガラスの破片は室内にはなく、外部だけに散乱しているところから、この瓶が内側から外側へ向かって投げられたものではないか、という推定がある。

 マルコムXの寝室の中央には、やはりウィスキー・ボトルの首と、同じ瓶の肩の部分、さらに、そこから数フィート離れた床に、ガソリンを浸した布が落ちていた。ただし、この寝室に火は入っていない。

 これらの証拠物件はそれぞれに、だれかに放火されたとするには不自然であることを物語っている。

 マルコム自身の証言では、自分で目覚めて火に気づいたとなっているが、夫人のほうは、彼を起こしてから、子どものほうを連れて逃げたと述べている。「マルコムXは火事の直後も、事情聴取の際にも、なんらの感情も示すことなく、怒りも表わさなかった。だれが火をつけたと思うかという質問には、文字通り声を上げて笑った」と、「ファイル」は記している。半ば焼け落ちた自宅の前で撮られた、UPIの写真でも、彼は微かに笑っている。

 マルコムは火災保険に入っていなかった。彼には生命保険もなかった。忠実な助手だったベンジャミン・カリムは、暗殺事件の直前に、ハーレムのテレサホテルからクルマのあるところまでの舗道を、彼と一緒に歩いたことがある。雪が降っていて、マルコムは重く黒いコートをまとい、ビーバーの皮の帽子で耳まですっぽり隠して、首にはウールのマフラーを巻きつけていたが、それでも震えながら、生命保険への加入を断られたと話した。保険会社は、形式的にでもいちおう健康診断書の提出を求めることさえしないで、即座に拒絶したらしい。彼には銀行預金も現金もなにもない。このまま死ねば家族は路頭に迷う以外にない。そのことへの不安を隠さなかった。「俺の生命は、この程度ってことさ」と言いながらマルコムXが、金具のカタカタ鳴るオーバーシューズのなかにズボンをたくしこんでいる光景を、カリムは書き留めている。

一発逆転への賭け■

 火事の後、近くに住む同志のトーマス(トム)・ウォーレスのもとに家族を預けたマルコムは、もう一度現場に戻り、衣類やレコードを集めると、午前9時半の便でデトロイトへ向かった。飛行機に乗り込みながら、やはり微笑を浮かべている写真が、テレビの画面に登場したという。11時半にデトロイトに到着し、スタットラー・ヒルトン・ホテルにチェックインする。ホテルでの記者会見でマルコムは、自宅を「爆破」した実行犯の姿は見ていないけれど、この事件は、自分とイーライジャ・モハメッドとの抗争の結果だと述べている。

 一方、ブラック・モスレム側は、この火事について、マルコム自身が世間の同情を集めるために画策したスタンド・プレイだと非難し、モハメッドの信用を失墜させて家の明け渡し決定への復讐をはかったものだとする見方を示した。

 なお、伝記『マルコム』の著者、ブルース・ペリーは、マルコムが、追いつめられると一か八かの行動に出がちな性格であることを指摘しながら、やはり自ら火を放った可能性を指摘している。さらに、放火犯に向かって25口径オートマティックを発車したけれど弾丸が出なかったと、マルコム自らラルフ・アイエロ刑事に証言した事実を重く見ている。つまり、前科のあるマルコムは、拳銃の所持許可証は持っていないと考えるのが自然であり、不法所持の容疑だけで逮捕できる。実際、アイエロらふたりの刑事は逮捕を進言したけれど、斥けられている。逮捕すればハーレムで暴動が起こることを、警察幹部は恐れたのである。マルコムの狙いもまた、そこにあったのではないか。キング牧師は留置場入りしたために一躍英雄への階梯を上ったが、この火事は、マルコムが仕組んだ一発逆転への賭けだったと考えられる。

 さて、デトロイトで、ホテルの638号室に入ったマルコムXは、それまでのクールな仮面がとれて、身内に沈み込んでいた興奮が一気に噴出したらしい。落ち着きがなく、苛立ちをあらわにする。「ファイル」からは名前を削除されている、ある人物が、彼の健康状態を懸念し、鎮静剤を射つ手配をしている。薬物の効果が出て、マルコムは話し言葉が不明瞭になり、うとうととしたまま過ごす。これらの記述からもわかるが、FBIの手は、彼の死命を制することのできる地点まで延びていたのである。

 この日は、午後4時からテレビのインタビューがあり、その後しばらく眠ってから、マルコムは、放送局主催の奨学資金授与式でスピーチをしている。

小さな出来事の深い意味■

 翌15日、ニューヨークに戻ってきた彼は、夜になって、ブロードウェイと166丁目の角にある「オーデュボン・ボールルーム」に向かう。午後8時15分から、自ら主宰する組織「アフロ・アメリカン統一組織」の集会に出席して、600人の聴衆を前にして演説するためである。この演説でマルコムは、怒りをむきだしにしながら、自分の家族を危険に陥れるような卑劣な行為の実行を直接に命じた張本人として、モハメッドを名指しで非難した。さらに、自宅の明け渡しを求められていることについては、この日ラジオで聞くまではまったく知らなかったと主張している。しかし、この主張は虚偽か、そうでなければ思い違いであることははっきりしている。

 マルコムはつづいて、ブラック・モスレムと、白人差別主義者のグループ「クー・クラックス・クラン(KKK)」の間で交わされた密約を「暴露」した。前者は後者から、ジョージア州かノース・カロライナ州に土地を譲渡してもらい、白人と交渉を持たずに暮らすことのできる場を建設することになっていた、というものである。その証拠として、彼自身、1960年にジョージア州アトランタでKKKの代表に会った事実を挙げた。さらには、「アメリカ・ナチ党」の首領、ジョージ・リンカーン・ロックウェルが、ブラック・モスレムの1962年度全国大会に招かれたことを明らかにして、両者の「親密な」関係に言及している。

 また、「狩人がいれば、狩人を狩る者たちがいる」と叫んで、復讐を示唆さえした。自宅が火事になった後、マルコムXはいっそう戦闘的になっていくのだが、それは、戻ることのできない袋小路である。この同じ場所で、6日後に彼は凶弾に倒れることになる。

 演説のなかでマルコムが、「私が自分の家を爆破したと証明できる人がいたら、この頭をライフルでぶちぬいてもらってもかまわない」と怒鳴ったために、場内がざわめき、一時演説が中断されるハプニングがあった。この小さな出来事の深い意味を、まだこの時点ではだれも知らない。

 この日の演説に関して、FBIは過去の資料をチェックした結果、マルコムXが述べているように、ブラック・モスレムと超右翼グループふたつとの、奇怪な友好関係が存在する可能性が高いことを確認している。

 アレックス・ヘイリーは、2年前から、『マルコムX自伝』の準備に入っていた。本人とのインタビューを重ね、原稿をおこして、すでに事実上の最終稿を書き上げ、マルコムXもそれを読んでいた。ところが、2月になってマルコムは、もう一度読ませてくれと言いだした。当時、ニューヨーク州北部の静かな町に仕事場を持っていたヘイリーを訪ねていきたい、という。ヘイリーが、自分は細かい編集上の直しを入れただけだから、あらためて全部を読むこともないでしょうと言うと、マルコムは「ただもう一度読みたいだけだ。本になった段階で読めるとはもう思えないからね」と、不吉なことを口走った。そこで週末を利用して、2月の20日か21日にヘイリー宅にやってくる手筈になった。21日は暗殺の当日になる。

 マルコムが、ヘイリーに電話をして、先の火事のために事態が紛糾しているので、週末の訪問を断念しなければならなくなったと伝えたのは、2月16日である。彼は、電話での短い会話のなかで、19日にミシシッピ州ジャクソンに赴き、「ミシシッピ・フリーダム・デモクラティック党」の公民権闘争を支援する演説をする予定もあるけれど、これもキャンセルせざるをえない、と語っている。

 同じ日マルコムは、側近に向かい、自分は5日後に殺しの標的にされていて、その実行者として選ばれた5人のブラック・モスレムの名前がわかっているから、集会で公表しようかと思っていると語ったという。また、拳銃の所持許可証を警察当局に申請するつもりだとも言っているが、申請書が実際に出されたかどうかはわかっていない。

恐怖心と虚勢と■

 火事の後に一家が身を寄せていたトム・ウォーレスは、マルコムに従って、ブラック・モスレムを脱けた人物で、そのために、信者たちから殴る蹴るの暴行を受けたこともある。いわば「忠臣」である。マルコムとベティ夫人は、彼の息子の寝室で寝起きしていた。そのベッドの下から、息子が現金の入ったスーツケースを見つけた。金の出所について、その場では、友人からの預かりものだと、言い抜けた。しかしマルコムは、身近の人間に対して、外国から資金援助を受けたことを認めたという。ただし、彼がこれを私的に使用した形跡はまったくない。

 家族を巻き添えにしたくないとして、間もなく彼だけがホテルへ移った。これについても、火事の後にベティ夫人との間に激しい口論があって、その結果「別居」したのだという噂もあった。

 ティーンエージャーのときもそうだったが、マルコムの中には、身を切り刻むような、激しい恐怖心と、生命の危機をわざわざ呼び込んでいるみたいに、思い切った行動をしないではいられない、むこうみずな心とが、同居している。恐れおののきながら、あるいはそれ故に、「敵」の前では、自分を精いっぱい大きく見せようとする。虚勢によって恐怖が中和できるとでも思っているみたいである。

 彼は実際、死の影に怯え切っていた。このころのマルコムは、歩きながら何度も後ろを振り返るようになっていたし、傍らのクルマがエンジンをふかし、大きな音をたてた程度で、もう身体が凍りついたみたいに固くなる。イグニションに爆薬を仕掛けられるのを恐れて、自分のクルマのボンネットに錠を下ろすほどであった。玄関のドアに背を向けてはけっして座らなかったが、これは、ウェスト・インディアン・アーチーとの対決のときに学んだ知恵だと説明していた。

 それでいて、モハメッドに対する攻撃は、いっそう激化させていたわけで、自らをキリストのような殉教者になぞらえる心境になっていたのであろう。死は怖いけれど、その死を渇望してやまない。死ぬことで得られるであろう聖なる地位への憧れは日々に増大する。かつてアーチーに追われたときには、ボストンという逃避先があったけれど、いまや世界に知られる「革命家」となったマルコムには、どこにも逃れられる先はない。それなら逆に、「敵」のイーライジャ・モハメッドを殺すことで決着をつけたらどうなのか。実際、彼の部下のなかにはそう主張する者もいた。しかしマルコムはけっして首を縦に振らなかった。そんなことをしたら、殉教者の称号を相手に献上するようなものであることが、マルコムにはよくわかっていたからである。

 自宅の明け渡しは、実際には2月18日に行われた。午前9時に、市の執行官が、ブラック・モスレムのニューヨーク第7寺院側に引き渡した。その8時間前の午前1時に、マルコムは残っていた家財のいっさいを運び出している。この当日、彼はコロンビア大で演説したが、一般の場で話をしたのは、これが最後となる。また、午後10時半に、WINSラジオのトークショーで、最後のオンエアをしている。

 FBIの「ファイル」には、18日に、ニューヨーク支局から、J・エドガー・フーヴァー長官宛てに、暗号テレタイプが送られてきた。これは家屋明け渡しの実施報告である。その後は、暗殺の翌日まで、なんらの動きもない。彼らは、じっと息を殺して、この人物の最期のときを待っていたかのようである。

誇大妄想か否か■

 2月19日に、彼は『ライフ』誌のフォト・ジャーナリスト、ゴードン・パークスのインタビューに応じている。バークスをマルコムは尊敬していた。この日、アストラカン帽と顎ひげの彼は、「静かで、光り輝いていた」と、ジャーナリストは後に書いている。すでに生の向こう側へ自己を投げ出してしまっている人間のみが放つ光彩なのであろうか。

 ブラック・モスレムだった頃を回想して、次のように発言したという。「あれは、ひどかったよ、ブラザー。あのころの病いと狂気。そこから自由になれてうれしいよ。いまは殉教者が求められているときなのだ。もし私の運命がそれであるならば、同志のためになるにちがいない。他にこの国を救える道はない。私はつらい思いをしたけれど、ともかくそのことがやっとわかった」

 死の前日の20日は土曜日である。朝早く、ベティ夫人をクルマに乗せて、家を見に出かけている。不動産屋に案内され、何軒かまわったなかで、ロング・アイランドのユダヤ人が多い地域にある一軒が、とくに気に入った。夫人も承認した。しかし、彼の頭のなかには、頭金の3000ドルをどうやって工面しようかという困惑がひろがっていたにちがいない。家族が身を寄せているウォーレスの家まで夫人を送り届ける道々、ふたりは、引っ越し費用としてさらに1000ドルはかかると話し合った。

 午後は、ウォーレスの家で、夫人とおしゃべりをして過ごしている。その際、苦労をかけてすまないと謝ったという。マンハッタンへ戻るために立ち去りかけながら、「ぼくたちはまた、みんな一緒になれる。一緒がいい。家族は別れて暮らしてはだめだ。これから長い旅をするときはいつもきみを連れていくよ。子どもたちは、だれかに頼んで世話してもらおう。もう二度ときみを長くひとりにしておかないから」と話しかけたと、『自伝』のまえがきの部分に記されている。

 クルマを走らせる間、彼の頭からはお金のことが去らない。午後3時半にアレックス・ヘイリーに電話をしている。途中のドラッグ・ストアからではなかったかと言われる。ヘイリーは、マルコムの声があまりにいつもとちがうので、はじめだれなのかわからなかったほどである。風邪をこじらせている、というのが彼の説明であった。電話の用件は金策で、引っ越すのに4000ドルが必要だが、持ち合わせが150ドルしかない。だれも自分には貸してくれはしない。まだ出版されていない『自伝』に、出版社は前渡し金を払ってくれないだろうか、というのがその趣旨である。ヘイリーは、月曜日の朝にエージェントの事務所が開くのを待って交渉しみるから、晩にこちらから電話するまで待ってほしいと答えている。

 その後の会話のなかでマルコムは、直面しているむずかしい状況を嘆きながら、話そうかどうしようか逡巡しているような調子で、こんなことを言っている。「最近起こっている事々について考えれば考えるほど、あのモスレムの連中の仕業だという確信がもてなくなる。私にはやつらができること、できないことがわかっているが、このごろのには、やつらにはできないこともある。つまり、なんというか、フランスで私に起こったことをずっと考えるうちに、モスレムにやられたと言うのはやめようと思いはじめている」

 「フランスで私に起こったこと」とは、2月9日に、好ましからざる人物として入国を拒否され、パリ・オルリー空港からロンドンへ逆戻りせざるをえなかった事件を指している。彼の言動が、フランス国内の人種対立を煽るのを恐れたのが理由だと言われたが、じつは、アメリカ国務省の差し金だった、あるいは、フランスで彼を暗殺する計画があるのを察知したフランス政府が手を打ったのだ、などの憶測があり、その真相は謎のままである。

 ともあれ、彼はこの経緯に「国際的陰謀」を嗅ぎとっていた。相手はもはや、シカゴにいる「やつら」だけではない。もっと大きな影が忍び寄ってくるのを感じる。これは、追いつめられた者の単なる誇大妄想だったのかどうか。

 同じ日、アール・グラントという同志から、自分の家に来て泊まってくれと求められたが、「きみには家族がある。私のためにだれかが傷つくのは望んでいない。最後はこんなものだとずっとわかっていたよ」と答えている。

暗殺のリハーサル■

 ヘイリーへ電話した後マルコムは、ブルーのオールズモビルをマンハッタンの中心部にあるニューヨーク・ヒルトン・ホテルのガレージに入れる。ここがその夜の宿で、彼は20階の部屋へ向かっている。

 「ヒルトン」のロビーには、黒い男たちが何人もうろつきはじめる。彼らは、ボーイをつかまえては、マルコムXの部屋はどこかと尋ねてまわる。そんなことを訊かれて答えるボーイはいるわけはない。この人物が暗殺の脅威にさらされていることは、ニューヨークの人間なら、だれ知らぬ者はいない。

 ボーイたちは沈黙し、男たちはしきりにロビーを徘徊する。ボーイ長の指示で、ホテル内は厳戒態勢がとられ、マルコムXの部屋にはだれも近づけなくなっていた。

 午後10時ごろに、タルマッジ・ヘイヤーという黒人が現われ、やはりマルコムXの部屋番号を尋ね、断られている。ヘイヤーは、その日の夕方に、「オーデュボン・ボールルーム」にいた。そこでは、「第七寺院」のブラック・モスレムたちが集会を開いていたらしい。警察のスパイの報告では、集会の参加者のなかに、このホールの出口の位置に鋭い関心を持つ者がいたという。

 そこから、これがマルコムX暗殺のリハーサルではなかったかという説が生まれている。ヘイヤーは、リハーサルがあったことは後に認めているけれど、それがいつどこで行われたかについては、口をつぐんだままである。

 後に暗殺犯のひとりとして裁かれることになるヘイヤーは、翌2月21日の午後3時過ぎ、マルコムの演説がはじまるとすぐに立ち上がって叫ぶことになる。「おれのポケットに手を突っ込むな」と。同じ言い方に、以前にも一度出合っている。

「天国の扉にノック」■

 1965年2月21日は日曜日で、昼を過ぎたころは、よく晴れて温かだったと、『マルコムX自伝』のなかで、アレックス・ヘイリーが記している。マンハッタン・ミッドタウンの「ニューヨーク・ヒルトン」をチェックアウトしたマルコムは、オールズモビルを運転して、ブロードウェイを北に走っていた。彼が向おうとしているのは、ハーレムの西166丁目にある「オーデュボン・ボールルーム」である。

 それから2時間あまり経った3時半には、彼の忠実なアシスタントであるベンジャミン・グッドマンによると、「灰色の日曜の午後」に変わっている。この時間に、コロンビア・プレスビテリアン病院のヴァンダビルト・クリニックに運び込まれたマルコムは、ただちに死を宣告された。天候ではなくて、この人物をめぐる人々の「心の空模様」のほうが一変したらしい。

 しかし、マルコムXの死に顔には、1週間前に自宅が焼失したときと同じような、不気味な薄笑いが浮かんでいた。彼にとって、全ては予想できたことであり、ぎりぎりのところまで追いつめられた末の野垂れ死には、ハーレムのハスラーの末路として、取り立てて珍しいものではない。今度は、ティーンエージャーのときのように逃げなかった。逃げられないくらいの大物になってしまっていたと言ったほうが適当かもしれない。

 その葬儀の席でオッシー・デイヴィスが称えたように、「我ら黒人の輝ける王子」に成り上がりながら、恨みを背負い込んだ犯罪者並みに、スラムのダンスホールの舞台で、銃弾に蜂の巣にされながら息絶え、しかも、だれになぜ殺られたのか、いまも謎のままである。正確には、暗殺などという取り澄ましたものではなくて、殺されることで彼は、本来のマルコム・リトルに回帰したのかもしれない。マルコムXが偉大であるとすれば、その理由はこの点にこそ求められる。

 「一番弟子」のグッドマンは、それから10年後にブラック・モスレムに復帰し、かつての仇敵イーライジャ・モハメッドの息子から、ベンジャミン・カリムという名を与えられた。1992年になって『マルコムX追想』Remembering Malcolm X という著作を公刊したときに、彼ははじめて、あの瞬間の真情を吐露することになった。

 「マルコムXは顔を上に向けて、ステージの床に横たわり、私は一瞬、彼が呼吸をしようとしているのかと思ったが、その目は動かず、私を凝視しているようだと言ってもいいくらいで、固着して、瞬きしない目に、私はその場に縛りつけられたままだった。と、全く突然に消えた。私の肩の重荷がなくなって、安堵の思いが私を覆った。それは、すべての苦難から解き放たれた、マルコムの安堵であった。死は時宜を得て、ある物事を終わらせる。どんなかたちでそれがもたらされようとも、来るべきときに来るのである」

 スラムに生きる者たちはこうして、マルコムXという人物に、自分を重ね合わせるのではないか。だからこそ彼は、伝説として受け継がれる。無理をして突っ張って生きている自分は、少しだけマルコムに似ているではないかと、だれもが思い込める。振り仰ぐ英雄ではなく、語り伝えるフォーク・ヒーローである。その死をめぐるドラマも、虚実が明らかでないのを幸いとして、さまざまに改変され、イメージは年を追うにつれて肥大していくにちがいない。

 ボブ・ディランが、ビリー・ザ・キッドを歌った「ノック、ノック、天国の扉にノック」のリフレインが聞こえてくる。
『マルコムX、その生と死2につづく
[2005.10.11.]


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