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★「ハルセマ日記」
太平洋上、「アメリカが懐かしい」■
1940年の春、21歳のぼくはデューク大を卒業し、父の反対はあったが、家族の住むフィリピンに帰ろうとしていた。両親は、かつての夏の首都、バギオに引退していた。父は30年間フィリピン政府の官吏を務め、そのうち17年間は、バギオの市長と公共事業部長の任にあった。父は、ぼくにはフィリピンに戻らずにアメリカでキャリアを追求するほうがいいと思っていたが、ぼくはフィリピンを故郷と考えていた。
デューク大の若手の教授陣のなかに、ポール・マイロン・アンソニー・ラインバーガーという人物がいた。ポールの青年時代は、私の境遇とよく似ていた。彼の父は、フィリピンのアメリカ人判事だったが、中国の国民党運動に関わり、やがて、孫文の顧問のなかでも中心的存在になった。1940年のデューク大は東アジアとのつながりが少なかった。東洋からの学生はあまりにも少数で、おかげで差別というよりはむしろ厚遇された。ポールとぼくはともに、仲間たちから妙なヤツと思われるハメになったことから、親しくなった。デューク大はフットボールが盛んで、学生たちの話題と言えば、このスポーツに集中していた。そのなかで、ぼくたちは外交政策を議論した。アメリカ人の間には、東洋へのほんとうの関心がなく、ローズヴェルト政権は、その地域でなにをしようと、あるいは「しまいと」勝手放題なのだと、ぼくたちは言い合った。
ある日、第7回日米学生会議のデューク大代表になる気はないかとポールに尋ねられた。1934年にスタートして以来、年次会議の場所を二国が交代で受け持っていた。表面的には各大学が後援するということだったが、日本政府が大きな役割を果たしていたことは間違いない。1940年の会議は、日本で開かれる。
ドイツ人とイタリア人は、アメリカ人を味方につけようとの両国の努力の一環として、研修旅行への招待をしていたが、ぼくは大学の3年のときも4年のときも、クラスメートたちに、これらの招待に応じるべきだと説いていた。「プロパガンダがいっぱいでうんざりするだろうけれど、旅行費用、食事、飲み物がみんなタダだってことを考えなよ」とぼくは言ったものである。日本からの招聘には、行き帰りの旅行代金は含まれていなかったが、ぼくが家に帰るための汽船の航路は、いずれにしろ日本を経由するはずであった。就職も決まっていなかったし、会議への参加を断る理由はなかった。代表の座は無競争同然であった。もうひとりだけ4年の学生で、東洋に関心のある者がいたけれど、成績が悪すぎて選考対象にならなかった。
愛車のビュイックにクラスメート3人が運賃を払って乗り込み、ユタ州のモニュメント・ヴァレーを貫く未舗装の長い道など、一車線の裏道をたどる大陸横断の旅をして、西海岸まで走った。南カリフォルニアの海浜リゾート、バルボア島で贅沢な10日を過ごした後、ぼくは、さらにサンフランシスコまで行って、クルマをマニラ行きの船に託し、アメリカ代表の仲間たちと合流した。
58人の代表のほとんどは、太平洋沿岸の名門大学から来ていて、ロッキー山脈の東からは数えるほどであった。ケイ・キタガワとケイ・ウチダのふたりは、ニセイ、つまりアメリカ生まれの日系人である。日本からの留学生が積極的に勧誘したので、以前の会議のアメリカ代表にはもっと多くのニセイがいた。今回の代表団のなかには、1939年に南カリフォルニア大で開かれた第6回会議の参加者も何人かいる。スタンフォード大からの8人がもっとも多く、同大のエドマンド・W・ピュー・ジュニアが会議の執行議長を務める関係で、代表団は彼らに牛耳られがちであった。
ぼくははじめ脅威を感じたが、それも、仲間のほとんどより自分のほうが東アジア体験が多いことに突然気づくまでのことであった。ぼくの場合は、なにしろ生後5カ月からはじまっているのである。1919年の6月、一隻のアメリカ陸軍輸送船が、船酔いの母と姉とぼくを、ウラジオストック経由で運んでくれて、ぼくたちは、バギオの父に合流した。後年母は、その船が燃料補給のために長崎に寄港したとき、額の革ひもで支えた篭に石炭を入れて船に運び込む女たちのことを、繰り返し話題にした。1920年代のバギオには、1,000人の日本人が住み、商店のいくつかは日本人のものであった。ぼくは、日本人の女性理髪師に整髪をしてもらい、床屋にある厚い雑誌は、読めはしなかったけれど、優雅な甲冑に身を包んだ昔の侍の、魅惑的なイラストで飾られていた。1940年当時のぼくにとって、直近の日本行は、38年に大学時代に一度だけ故郷のバギオで夏休みを過ごしたときに立ち寄ったときである。その夏は、神戸の「性具」店で買い物をし、おかげで、ノース・カロライナのキャンパスでは、サークル仲間の尊敬を勝ち得たものであった。もっとも、このころのぼくは、東アジアの最近の情勢には通じていたけれど、日本語を全然話せず、日本についてもその文化についてもほとんど知識がなかった。ぼくの関わり合いと言えば、太平洋岸の港、神戸から横浜までの汽車旅に関してだけであった。
ぼくたちは、日本の旅客船のなかで最大で最良の船のひとつ、浅間丸で、1940年6月23日にサンフランシスコを出航した。桟橋の友人たちに投げる紙テープが乱舞し、船のオーケストラが奏でる音楽が響き、汽笛が鳴り渡る。それは昔ながらの船出だが、戦争に引き裂かれた世界にはそぐわない風景になっていた。ぼくの相部屋は、2段ベッドがふたつある、小さな2等船室の260号であった。同じキャビン仲間は3人である。南カリフォルニア大のジャック・ベアドは、がっしりした物知り顔の大学院生で、図書館の貸し出し係らしく、若者を教え導くのには慣れている。カリフォルニア大ロサンジェルス校のアール・マッキネスは、「飲まず、吸わず、噛み煙草をやらず、悪友どもとは行を共にしない」ことを誇りにしている。もうひとりのハロルド・クリフトン・グールドは、マッキネスとは正反対の人間である。ベアドは、初め感じていたよりずっと付き合いやすい人物であった。
乗客の中には、54人のニセイの団体客が含まれていたが、そのほとんどがこれから旅しようとする国の言葉や習慣をわかっていないことではぼくと変わらなかった。サクラメントから来た高校フットボールの選手は、6フィート2インチの巨漢で、「いつもいつも米ばかり食べさせられる。おいしいステーキにありつきたいよ」と不平を言った。ぼくたちの船室の係はウチダさんと言い、ちょこちょこ動く小柄な男で、朝7時に我々を起こし、洗濯物を集め、ロビーを掃除し、ときにはビールをこっそり持ってきては一緒に飲んだ。ぼくは、口ひげをきれいに整えた如才ないニューヨーカー、レオ・ゴールドバーグと友だちになった。彼は神戸製品の輸出をしていた。よどみなくよくしゃべり、東洋について熟知していて、ずっと東洋に居ることになりそうなアメリカ人居住者らしい流儀で日々を過ごしていた。
ホノルルの一日はどこといって変わったところはなく、ぼくが初めて訪れた1927年と同じ、昔ながらの場所であった。本土の人々は、とかくロマンティックな表現でハワイを考えたがる。しかし実際のホノルルは相当に陽気な街で、いい友達に恵まれたら、一夏か二夏ぐらいは悪くないと思った。1940年7月のぼくの主要な関心事は、ショッピング、暑さ、それに際立った人種混淆であった。彼らは第二世代で、だれもかれもが、話しぶりも振舞いも着ているものも102パーセント・アメリカ人という感じである。ハワイ人のバス運転手は、友人たちに別れの挨拶に行く着物と下駄の日系女性に、楽しげに辛抱強く、簡単な英語で浅間丸までの道順を説明した後、「このガイジン連中が!」とでも言いたげに、ぼくたちを眺め回した。ぼくたちは、ワイキキ・ビーチに面した、ピンクの漆喰壁のロイヤル・ハワイアン・ホテルで喉を潤した。そこは観光客向けの割高の場所で、美しい芝生と樹木があり、フラダンスを指導してくれ、みやげ物店ではフィリピン製のウクレレを売っていた。ある中華料理店で昼食をしたが、そこも観光客に高い代金をふっかける店であった。午後は、ウェズリー・フィッシェルとふたりで、ホノルルと、ダイアモンド・ヘッドを越えて東の郊外まで、バスで巡って過ごした。立派な家々が要塞地域を囲み、さらに遠くまで行くと、板張りの農家と、ゴルフ・コースがひとつあった。
ぼくたちがほとんどなにもない海を渡っているころ、ヨーロッパと祖国アメリカでは、重大な事々が起こっていた。船に備えてある、乗客用無線受信機は「故障」だったが、ぼくは高校のときにラジオの販売をしていたので、スクリュードライヴァー一本で、アンテナ接続を楽に直した。ホノルルへの途次、ロサンジェルスのKNXを聴いて、ウェンデル・ウィルキーが共和党の大統領候補になったニュースを拾った。ハワイを出航後、船のラジオは修理不能になったが、マニラの会計士、エドゥアルド・ザパレテが、小さなエマソン電池セットを所持していた。ぼくたちはホノルルのラジオ局の放送に耳をすまし、日本軍に香港を包囲されたため、アメリカ人とそれにイギリス人の家族とが、この植民地から退去したというニュースを知った。「日本があの島を奪ったらイギリスは戦うのだろうか。そうなると、ぼくたちはどういうことになるのか」と、ぼくは自問した。ぼくは意図して、この問題をあまり考えないようにしていたが、結局、日本は日ならずしてこの植民地に対し積極行動に出るだろうという判断を下した。イギリスがドイツに敗れるというおぞましいことが、もし起こるとすれば、日本はそのときを待って行動するであろう。ドイツが先の世界動乱で学んだように、白人の失点は日本の得点になる。フランスが独立国家ではなくなると認めるのはなお、ぼくには困難であった。わずか2、3週間前だったらどの雑誌も、フランスの前途はなお洋々としていると述べたことであろう。フランスがない! それは馴染みのないことだけれど、まったく馴染まないというわけではなくなっていた。
太平洋横断の旅にはつきもののあれやこれや。エマジーン・ダドリッジは、生意気で陽気なブロンドで、インディアナ州アールハム・カレッジの代表。ウォルター・E・“テッド”・ワインブレナーは、ぼく同様、大学新聞の経験がある。彼らと輪投げで遊んだ。ふたりは故郷に戻ったら結婚することになっていた。もうひとり気心の合った仲間はテッド・ガンサーで、『ヨーロッパの内幕』の著者の遠縁にあたる。シベリア経由で祖国に帰るドイツ人の一団も、とても友好的であった。
日付変更線のおかげで7月3日を飛び越えて独立記念日になり、学生同士のパーティであった。サン・デッキで国旗掲揚のセレモニーをし、午後になると船室対抗の仮装ゲームになった。我が260号室は、ぎゃーぎゃー泣きわめくガキふたりがいる、巨大なママの仮装で出場した。カーテンやタオル、シーツ、それに大量のピンが必要で、ウチダさんが当惑しながらもよく協力して揃えてくれた。ぼくはでかいおむつをした。しかし、上下2層に組み立てたママの下の方を受け持っていたハロルド・グールドが、2回戦でこけてしまい、他の組の競り合いを傍観できただけであった。その後は、日を浴びながらうつらうつらして、アメリカのことを懐かしく思い出していた。大多数の人には皮相なことに思えるだろうが、ぼくとポール・ラインバーガーにとっては、ひとつひとつがぼくたちの文化にとって欠くことのできない要素ばかりであった。チューインガムとコカコーラ、芸術的な配管工事、コンクリートの道路、男女の間の気取らない親密さ、コミックと写真がいっぱいのピカピカの朝刊、田舎道沿いの心暖かな人々、太陽サンサンの冬のフロリダ、ラジオ・シティのマジック・タワー、シンプルでたっぷりした中西部の食事、自分に非のあるときは認める素直さ、ラジオのヴァラエティ・ショー、どれをとっても欠かせない。西へ向かい北に進むにつれて、霧がちの天候になり、かなり涼しくなっていった。
東京着、退屈な一週間■
ぼくたちが横浜に着いたのは、7月8日の月曜日、暑く、湿気の多い朝であった。強風に運ばれる厚い靄が、青々とした半島にかぶさり、接近しつつある嵐の先触れとなっていた。ぼくたちは午前7時に到着するはずだったが、その時間にはまだ、重たい太平洋の水面をかき分けて進んでいた。午前11時には横浜にたどりついていたけれど、エアコンのない船にぎっしり詰め込まれて、荷物、金、煙草、それに本を細かく調べられ、イライラさせられた末に上陸を許された。1938年のときには、アジアの諸地点からの旅行者は検便サンプルを提出させられたものだが、今回は少なくともそういう目に遭った者はいなかった。
やっとの思いで、疑い深い税関吏から解放されると、ぼくたちは争って、ひしめき合う群集の間を抜け日本人の男子学生たちの出迎えを受けた。黒の制服と白いカラー、庇のついたキャップをかぶった彼らが、これからはぼくたちのホストということになる。駅までタクシーで運ばれる。クルマが最初に右折して、左側通行のせわしない道路に入っていったときには、驚かされはしたけれど、ぼくにとって2年ぶりのアジアの都市は、他にはとりたてて奇妙でもなく、よそよそしい感じもしなかった。東京行きの高速鉄道は、よく揺れ、よく跳ねながら、切れ目のない街のなかを突っ走った。田圃を見ることはなく、送電線と、吊革につかまる着物の乗客だけが視野に入った。小さな店々を眺め、貧弱な日本家屋と機能的で近代的な工場との両方が通過していった。
東京に着くと、西武線に乗り換え、当時は東京の郊外の奧だった国分寺まで、延々と乗った。さらに木炭をエネルギーに使うバスで、会議が開かれる津田塾大へ向かった。ぼくたちはコンクリートづくりの寄宿舎で、個室に別れて宿泊した。西洋の人間は大きいので、日本の部屋の入口やベッドにおさまりきらず、和式のトイレにまたがるのにも難渋した。食事は貧弱だと思った。夏の最中だったが、扇風機すら備えられていなかった。
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第7回日米学生会議の参加者たち。1940年7月、津田塾大構内にて |
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100人あまりの日本の代表たちは、数でぼくたちを圧倒していたが、両国政府の間の緊張が高まっていたにも関わらず、彼らは友好的でとても陽気であった。英語を流暢に話す者もいたが、なかには、理解のむずかしいアクセントの者もあった。最初の晩に、近隣の村で顔合わせの会が開かれ、サケが少し出た。サケは熱くして、小さな土器から小さなカップに注いで出される米のワインである。
始終、名所や模範的な施設を案内されるのだということが間もなく明らかになった。工場は、家庭用品をつくるところ以外には見せられなかった。到着の翌朝、東京市内へ行った。狭いアスファルトの通りの両側に密生した樹木がつづき、人家は舗装部分の間近にまで迫っていた。3台のバスに分乗したが、燃料が木炭なのでパワーが極端に落ちていて、這うようにしないと傾斜を上れないほどであった。アメリカとそっくりなのは、水道などの施設の修理のために掘り返されている道路が多いという点である。
最初に下車したのは、皇居前への表敬訪問のためであった。ぼくたちが整列させられて軽くお辞儀をしている間に、公式の写真撮影があった。ぼくたちのほうで撮影することは許されなかった。セーラー服の女の子の一団が、行進していき、てっぺんの白い帽子の警官たちが角々に立って、それを監視していた。
次ぎは、ロックフェラー財団の援助を受けている永田町小学校を訪ねた。そこの教室は、ぼくが通ったデューク大に匹敵したが、トイレではお馴染みの臭いがした。ぼくたちが会った子どもたちの多くは眼鏡をかけていて、漢字の見本をじっと見つめ、一生懸命に書き写していた。教室での勉強には、揃って暗唱することが多い。8歳のアメリカ人がしているのと同じような図工をしている生徒たちもいた。親切そうで、ふっくらした顔に口ひげをつけた校長は、6フィート4インチのアメリカ人が生徒たち何人かを肩車してあげると、喜びに顔を輝かせた。
何時間も歩き回ったみたいな気がするが、その後、東京帝国大学で昼食をとった。ハーヴァード大のワイデナー図書館に倣って、喫茶室がいくつか付設された図書館に、ぼくたちは感銘を受けた。高柳賢三教授(法学部)が短い話をして、そのなかで、近代の日本は、封建主義の強力な土台
の上に成り立っていると語った。
津田塾大に戻ると、第7回日米学生会議の公式オープニングであった。体育館でのパーティにつづいて、演説がひとつあったが、そこで強調されていたのは、周囲の世の中に対して個人が「なぜ?」と問うことをよしとしないが故に日本人の今日があるということであった。日本人は、両親、教師、そして指導者の命令に従わなければならない。
長い一日の最後は、日本式の風呂であった。湯に浸したタオルで汚れを落としてから、とても熱い湯がいっぱいの、大きな丸い風呂桶に浸る。ぼくは、ゆっくりと慎重に身体を沈めながら、ちりちりと皮膚が焼けた。ここには混浴はなかった。
翌日の円卓会議の結果、アメリカと日本との教育制度の主要な差違は、国家とはなにかの観念が異なっていることにあるとの結論に達した。ある日本人女子学生が、なにをしなければならないかを子どもたちに教える母親に日本の国家をなぞらえて話した。日本人学生の大多数は、国家による検閲ないしは「思想統制」に憤慨していないと言う。ぼくがとくに強い印象を受けた代表が3人いる。早大のイイ・ナオト、ワシントン大のビル・ルート、それに横浜商大のツダ・コータローである。女性たちは、日米ともに、引っ込み思案か、世界政治についてあまり知らないかのどちらかであった。
昼食の後、ぼくたちは、郊外電車で東京駅へ行った。トンネルを抜け運河を渡っていくルートは、すでに馴染み深いものになりつつある。ぼくは、いちばん前の車輌に立って、ぴかぴかの狭い線路が、かちかちと音をたてながら、駅のフォーム、待避線、分岐点の轍叉、転轍機、保線小屋などを通り過ぎていくのをながめていた。それは、アメリカやヨーロッパの郊外鉄道とまるで変わらない風景であった。ぼくたちは閑散とした通りを長い距離歩いて、フランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテルというユニークな低層モダニズム建築にたどりついた。天井の高さは、日本人の身長に合わせたように思えた。ぼくには、この建物は暗くて窮屈な気がした。ニューグランドホテルの冷房の効いたルーフ・ガーデンで、しゃれた音楽に耳を傾けながら食事をした。アメリカ人学生のほとんどは田舎者まるだしで、飛び上がっては夕陽を見ようとした。その後、銀座で、テッド・ワインブレナーとぼくは、他の連中をまいて、ふたりだけでほっつき歩き、結局ビアホールにゆきついた。そこでは、ゲイシャがひとり、ぼくたちにとてもおいしい生ビールを給仕してくれた。彼女とその同僚たちは、ぼくのサイズ11の靴に興味をそそられていた。チップを受け取らないことはたしかである。夜遅い電車で帰路に着いた。いびきや赤い顔色から判断して、周りの乗客のなかには、オフィスを後にしてから十分以上に飲んでいる者が何人かいる。彼らは酒に呑まれてしまっている。
ぼくたちの円卓会議は大学の図書館で行われているが、そこは不快なほど暑く、湿気が多い。愛国心という観念について議論した。日本に於いては、自国に対する賛嘆の念は、疑問の余地のない道徳的な問題である。「科学には限りがなく、限界は科学者にある」という主張については合意した。1946年に独立が予定されている共和国フィリピンについて、その将来に、特定できない「変動条件」がかならず待っている国として言及する発言には驚いた。粘りつくような暑さと荒れ模様の霧雨にマニラが思い出されて、ふたたびあの気候に適応できるだろうかと考えはじめている。
その日の午後もそうだが、街へ出かけるときにはきまって、日本人の男子学生たちが一緒であった。ぼくたちは自分たちだけでうろつくものではないと思われているのはたしかである。なぜか? 警察が懸命に58人の外国人学生を尾行しているからで、日本人学生たちが割ってはいるかたちになる。帝国ホテルで休憩し、その後、茶店と呼ばれる小さな小さな店で、テンプラ(小麦粉をまぶして揚げた魚)の軽食になった。箸、ご飯茶碗、それに大根、醤油、漬け物の小皿がいくつか、さらに緑茶がついてきた。銀座のショッピング街を歩き、三越百貨店をのぞいた。目を引く陳列品には、合繊の衣服や、豪華に包装されているけれど臭い干物があった。ドイツそっくりなライオン・ビア・ホールで、泡立つ陶器のジョッキで飲んだ。そこの壁画には、ナチの百姓娘たちが、同様のジョッキを運んでいる姿が描かれている。ローマイヤーでの夕食は愉快で、お腹一杯になった。アー、楽しきかな!
浅間丸に乗り合わせた人たちのなかに、ニューヨークのイタリア総領事のスタッフがいた。破壊活動容疑でアメリカ政府によって国外追放されたのである。イタリアはイギリスと戦争状態にあるため、大西洋経由で祖国に帰ることができなかった。彼らは陽気で友好的な一団で、アメリカ人になんの恨みも抱くことなく、世界の情勢について、喜んでぼくたちに教えてくれた。リーダーのアレサンドリ伯は上海の租界へ行った。ソ連が、シベリア鉄道で自国の領土を一行が通過するのをなかなか許可しないため、彼らは東京の帝国ホテルに長期滞在して、ビザの発給を待っていた。ぼくたちはそこのロビーを訪ねるたびに、彼らから飲み物とおしゃべりのごちそうになった。ある晩低い声で、天井の低いロビーにいる他の連中の身元を話してくれた。その半分は、なんらかの諜報活動をしているようであった。蛇の道はへびとはこのことである。
イタリア人の指摘によれば、ぼくたちを尾けている公安関係者には、少なくとも3種類あるという。普通の地元警察、憲兵隊(ゲシュタポの兄弟分みたいな、一般市民に権力をふるう軍事警察)、それに、主にぼくたちをトラブルから守ろうとしている外務省関係者である。日本の民間政府当局は、自国にとってもっとも有利な側面を見せようと最善の努力を払っているが、軍と警察の行動はこれとは相反するものだと、イタリア人たちは感じていた。
連日の円卓会議は、ますます退屈になっていった。そこでの議事日程は日本の当局の手で組まれていることは明らかであり、議論は純粋な確信から出たものではなく、彼らの大義の正しさ、その愛国心の強さ、そして戦争への嫌悪をぼくたちに信じ込ませようと仕組まれている。そこで、ぼくたちは「日本に於ける女性の教育のための新しい秩序」を鼓吹する報告などを聴かされなければいけない。囁き交わす噂でいつも持ちきりの帝国ホテル・ロビーで、かつての乗客仲間から聞かされたところでは、現内閣に反対する軍の動きが目立ってきているという。ときどき、キャンパスに近い航空基地から聞こえてくるエンジン音と機関銃訓練の銃声に、会議の討論がのみこまれてしまうのが、象徴的である。ぼくたちは、日本側の諸問題を徹底して論じることにほとんど終始し、アメリカ側のそれはめったに話題にならない。日本の女性たちは、内気であるばかりか、英語が男たちに劣っている。彼女たちは明らかに、平等を望んでいない。
遠出は、日程にあるものでも自分たちで行くものでも、退屈を克服する役に立つ。ある午後、エマジーンとぼくは、東京の学生ふたりを口説いて同行してもらい、野菜畑を越えて砂利道を歩き、小さな村に至った。そこでぼくたちはたちまち人気者になった。子どもたちは、ばかでかいアメリカ人に目を丸くして立っていた。大人たちが親切にも自転車を貸してくれたので、これに乗り、東京に水を供給している村山貯水池を見に行くことができた。大きな貯水池だが、水は半分ほどしかなかった。暑さと自転車漕ぎに疲れ、道ばたの食堂で休んで瓶のビールを飲んだ。翌日ぼくたちはバスでナガノ養蚕研究所に出かけていき、熟練の女性技術者が繊維をほぐせるように蚕を煮沸する、精緻な科学実験を見学した。真新しい、広々として立派な帝室博物館新館(現在の本館)を慌ただしく訪ね、日本の芸術の諸側面に接し堪能した。ぼくは、石器時代の土器と広重の版画に心を打たれたが、もっとも印象的だったのは、豪華な宮廷衣装が完璧な状態で保存されていることであった。
7月13日・土曜日、国際文化振興会における晩餐会は、会議の柱になる行事であった。ぼくは、半官の英字新聞で、外務省の考え方を代弁していると考えられる『ジャパン・タイムズ』の編集長ゴー・トシの隣りに座った。ぼくたちはすぐにジャーナリスト同士打ち解けた関係になった。津田塾大で陳腐な議論に付き合った後だけに、鶴見祐輔の「日米関係」と題するスピーチの率直さに感銘を受けた。鶴見は衆議院議員である。「1931年以降、アジア大陸における日本の行動は、1921−22年のワシントン海軍軍縮会議によって確立された現行システムと衝突をはじめた」と、鶴見は述べた。在来のシステムを維持しうるとすれば、日本がより自由な貿易関係をつくり、原料を確保し、その余剰人口を輸出できるようにする以外に方法はない。このように主張する彼は、アメリカは20年前から日本との戦争を云々しはじめていたと不満を口にした。日本が蒙った主な打撃は三つあるという。第一に、1924年のアメリカ移民法のような、移民の制限とあからさまな排除。第二に、オタワ貿易会議で承認されたような関税障壁。第三には、中国の反日姿勢。アメリカは、自身の価値観によってのみ世界を判断すべきではないというのが、鶴見の結論であった。
日曜には、東京の西の郊外で長いことバスに乗り、また別の屋上レストランで日本学生協会のOBとOG主催の昼食会へ出かけた。ウェートレスたちは手際よく、おいしい食事を運んだ。宗教学者の姉崎正治博士は、学生会議の主要な目的は「友好」ではなくて教育にあると述べた。他にもいろいろ言っていたが、その言葉は私には聞き取りにくかった。東京の中心部へ行き、帝国議会を見学した。それは世界中のいろいろな議会の、けばけばしい模倣であった。大理石のネオゴシック建築で、赤いシルクと金ぴかの天皇の間がある。例によって写真撮影は許されなかった。最後は、道を戻って自由学園へ行った。校長の羽仁もと子女史は、小柄な、目の不自由な女性で、日本でももっとも進歩的な教育者のひとりと言われている。構内を案内されたぼくたちは、その後、夕食の席で彼女から、平和への願いを込めた挨拶を受けたが、これはかなり異例なことであった。ライトの弟子が設計した建物は、シンプルで、風通しがよく、窓がたくさんある。生徒たちは、自発的に勉強することを奨励され、小さな水力発電所をつくったりしている。日本に着いてから一週間になるが、ここで出された食事は質量ともにいちばんであった。卒業生たちは、中国人のために北京で地域に根ざした学校に積極的に関わり、北日本でも同様の活動をしている。学生たちのクラシック・コンサートはかなり良かったが、木管楽器だけはいただけなかった。ぼくたちは生徒たちが掲げる提灯に送り出された。テッドとぼくは、トイレに2時間こもって酒盛りをした。最後に、ディック・タケウチとテッドと一緒にワインの1クォート瓶を空にしている最中に強い地震があった。壁から消火器がはずれて飛ばされたほどであった。ぼくはこれまでたくさんの地震を経験しているけれど、怖さは相変わらずである。
忍び寄る黒い影■
7月15日、月曜日、ぼくたちは円卓会議で激しくやりあった。相手側は、ふたつのことを認めると言い出した。もちろんそれらついてはぼくたちのほうはすでによく承知しているけれど、日本ではまず是認されない事柄である。第一に、日本は太平洋の諸島を要塞化しているけれど、これは、国際連盟からこれらの島々を信託された際の条件に違反していること。第二には、日本は1930年以前でさえ、アジアに於ける拡大政策計画を完全に実施していたこと。ぼくたちは日本に主導された、各地のグループについてよく耳にするが、これは、「赤色帝国主義への防波堤」と称されている。
タカウチに伴われて、テッドとぼくは、東京日々新聞のエアコンのきいたオフィスへ行った。テッドが、今日の日本のジャーナリズムについてたくさんの質問をしたけれど、新聞に許されている言論の自由の程度について、不満足な答えしか得られなかった。ぼくは整髪をしてから、ひとりでハロルドとエセルのエイモス夫妻を訪ねるため、うきうきと出かけていった。ふたりはぼくが8歳のときからの知り合いで、ハロルド氏のほうは1934年に日本に移る前にはバギオのブレント校で校長をしていたので、バギオの友人たちのことを話題にできる。ぼくは日本語がわからないので、都心の銀座からふたりの居るところにたどりつくのに難渋した。まず山手線を乗り間違えた。それからちがう駅で降りてしまい、むやみに歩き回り、道を訊こうとするけれどうまくいかない。道順がわかると、ちがうバスに2度乗ってしまった。最後は警官が正しい行き先の電車に乗せてくれた。目黒区の東京アメリカン・スクールに着いた私は貴重な贈り物をふたつ抱えていた。片方の腕にアメリカのコーヒーを一缶、もう一方の腕にはコダクロームのフィルム。
火曜日も円卓会議では激しい議論が続いた。ぼくたちはお互いに気心をわかりあえるようになっている。この日は、鶴見祐輔氏の主張が蒸し返されたが、よりいっそうあからさまな表現になっていた。日本は自国の利益のために東アジアの支配権をとろうとしているが、これは、ひとつはその過剰人口のはけ口を確保することが目的であり(ただし植民によってではなく、国内の産業活動を増大することによる)、もうひとつは原料の確保である。日本の輸出増大に対して各国が関税障壁を設けたため、日本はこの政策をとらざるをえなくなったという。それではなぜ人口抑制をしないのかと、我がほうのひとりが質問した。産児制限は、国を強くするという国家政策に反するからであり、また、一般大衆の志気に影響するからだとの答えであった。1937年に揚子江上でアメリカ海軍の戦艦パネイが「誤って」爆撃される事件があったけれど、それでもなお、新しい中国を発展させようとする日本に、アメリカは資金貸与をするべきだという主張である。良き日本人はまた、従順、親孝行、目上の者への服従、これら三つを最大の美徳と信じているという話もあった。
はじめて心地よい昼寝をした後、テッド、エマジーン、京都大学の「ジョージ」フジタ、さらにもうひとりの学生と一緒に都心に出て、畳、障子、お膳、それに着物をつけた丁寧なウェートレスのいる、ほんとうの和風レストランに入った。サケを40杯以上とビールを2本飲んだ。サケはワインとよく似た効き方をして眠くなるので、ぼくはラムのほうがいい。通りに戻ると、小型の新聞紙が目に入ったが、ジョージによるとこれが号外なのだそうで、そこには、米内光政内閣の総辞職が報じられ、主に陸軍が米内の外交政策に反対したためだと述べられていた。
7月17日の会議では、アメリカが1917年まで第一次世界大戦に参戦しなかったのは、背後にいる日本を恐れたからだという議論を聞いた。ノブオ・イトーの発言は最良のものであった。彼の父親は三井商事の重役で、彼の家は、東京の上流階級が住む麻布区にある。イトーは、外の世界を直接経験して知っているので、そつがない。すばらしいアメリカン・アクセントの英語を話し、日本の海軍戦艦のことを熟知し、他の日本側代表のほとんどよりずっと現実的な姿勢を示す。ワシントン条約破棄が話題になると、彼はこれを「絶望に誘発されたものだ」と説明した。
都心まで長い時間かけて電車に乗っていくのは、退屈なくらいお馴染みのことになりつつある。ぼくたちは絶えず監視されているので、ぼくはほんとうのところ居心地がよくない。コカコーラがあり、クルマを運転でき、召使いがいて、近代的な衛生設備があり、家庭料理を楽しめるといった、東洋のアメリカ統治地域の快適さが喉から手が出るほどほしい。英字紙『ジャパン・アドバタイザー』のB・ウィルフレッド・フライシャーを訪ねた。ぼくと話している間にフライシャーは、内閣を巡る情勢に関する速報を同盟通信から受け取った。しかし、首相経験のある近衛文麿公が新首相になることをぼくが知りえたのは、その日の夕方であった。近衛は全体主義をもたらすのであろうか。その間、ぼくは、明るく清潔な地下鉄で三越百貨店へ行き、質の悪い商品をいろいろ見てまわった。グリーティング・カードの注文をした。アメリカン・クラブで夕食をとった。ぼくたちはアメリカ大使館にはなんの関わりもなかった。日本政府が熱心に、ぼくたちを引きつけようとしているのと反対に、我が政府はなんの関心も持っていないようである。
帝国ホテルのロビーをたまり場にしている古株の連中の話では、2、3カ月前に東京の刑務所に放り込まれ、追放処分になったジミー・ヤングは、当然の報いを受けたのだという。インターナショナル・ニュース・サービスのラリー・スミスが言うのには、重慶に行く前の自慢話で、ヤングは、自分のキャリアのなかでいままでに経験していないことと言えば刑務所に入ることだと語った。望み通りになったわけである。
7月18日・木曜日は、会議そのものの最終日であった。閉会式の際、議長たちのレポートで述べられていたように、アメリカと日本の立場の間には、大きな食い違いがある。ぼくたちはたくさん写真を撮った。南カリフォルニア大の教授陣を代表して付き添ってきていた、フランシス・ベイコン博士とキャサリン・ビアズが出す、くだらない指示にはいらいらさせられる。「あなたのパスポートは、このむずかしい時代にあって、いちばん貴重な持ち物なのよ」と生物学の教授のビアズはおごそかに言うけれど、せいぜいロサンジェルス周辺しか知らない彼女になにがわかるというのか。きょうのおふたりは、ぼくたちの間をめぐって、レセプションの途中でだれも抜け出さないようにと念を押してまわった。しきりに写真を撮ったのは日本人で、彼らは、フィルムが手に入りさえすれば、カメラの鬼と化す。ぼくは、買ったばかりの日本の衣装をつけて扇子まで揃えたエマジーンの写真を1枚撮った。明るい月に照らされキャンパスの芝生で開かれたさよなら立食会は素敵であった。
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着物姿のエマジーン・ダドリッジと婚約者のテッド・ワインブレナー |
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これからぼくたちは、本州、朝鮮、「満州」への旅に立とうとしている。日本では、国際学友会の代表で、この後訪ねていく地域から来ている学生たちが同行することになる。外務省関係者ひとりと通訳をする学生数人が、ぼくたちと一緒に占領地域へ行くはずである。アメリカ代表一行はその後日本に戻り、8月30日にサンフランシスコへ発つ。ただし、ぼくはそのままフィリピンへ行きたいので、外務省の官吏と話し合いをつづけていて、マサヨシ・イナバ子爵のところまで話が達している。日本が占領している中国北部へ行けるビザが得られれば、ぼくは大連で一行と別れて北京から上海へ下り、上海からマニラ行きの船に乗れるであろう。この件について、アメリカ側代表団のリーダーたちとはまだ話をしていないけれど、テッドとエマジーンは、ぼくの計画を承知している。
7月19日・金曜日、洗濯物を大慌てで捜し回り、費用の支払いをし、有名人になったみたいにサインをしてから、午前10時、津田塾大を後にした。東京の歴史のなかでも、この日はもっとも暑く、もっとも湿気の多い一日であった。ぼくたちが東京証券取引所の、冷房の効いた見学者ロビーに入っていくと、取引が1分近く中断され、拍手喝采が続いた。それはとても感動的な瞬間であった。ぼくの叔父には、ニューヨーク証券取引所のメンバーがふたりいるけれど、ぼくがそこへ訪ねていっても、だれも気づきもしなかった。東京ではフロアのセリで取引が行われ、上の方に告知され、短期と長期に分けられている。この日もっとも頻繁に取引されたのは、三菱重工であった。
理事の会議室でお茶になった。昼食は東京市役所であり、助役のノブオ・タニカワの演説は忘れられないものだったが、それに先だって、「市長は残念ながら公務多忙のため」という、使い古された決まり文句があった。それから、日本放送協会の真新しい大理石のビルへ行ったが、布で覆った壁などの装飾はけばけばしいだけで、創造性はあまり感じられなかった。R・中山局長に迎えられた。彼は、国際的な理解の基盤としてお互いへの尊敬の念が絶対に必要だと強調し、ぼくたちが使う「ジャップ」などという用語には、無知と軽蔑とが込められていると述べた。また彼は、日本の生徒たちの間ではワシントンやリンカーンなどが広く知られているのに、ぼくたちのほうは日本の英雄たちをまるで知らないことを挙げて、比べた。太平洋を渡ると、時計を合わせ直さなくてはいけないだけでなく、見方が大きく変わるという発言には、とくに感銘を受けた。ぼくたちが聞いたいくつかの話の底に流れているのは、いつかアメリカは日本の友情を真に必要とするであろうという含意であった。東京の長い一日は、ロータリー・クラブでの夕食と、大きな三越百貨店での余興で終わった。 |

日本側代表の女子学生とハルセマ。津田塾大構内で |
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名古屋から琵琶湖へ■
どうしてなのか、学生会議を企画した人たちは、ぼくたちには夜ゆっくり眠ることが必要なのだという考えを無視したか、あるいは受けつけなかったかのどちらかである。日米両方の代表たちとも、日本国有鉄道の狭軌の東海道本線の寝台車に乗せられるハメになり、本州の太平洋沿岸を夜を徹して走り、375キロ(233マイル)の道のりを名古屋まで旅したのである。ぼくの母は、1912年に父と結婚してフィリピンに赴く途中、ふたりでこのルートをたどったことをよく話していたものである。銀色の月の光に照らされて、線路の下の波と、その傍らの田圃と、それに見上げる山々が、シュールな雰囲気を漂わせていた。電動車に引かれて、熱海を経由し箱根山のトンネルを通り抜け、沼津に停車して蒸気機関車に接続した。ぼくたちは、売り子からアイスクリームとポットに入った熱いお茶を買った。お茶は5銭であった。時間が遅くなるにつれて、疲れはてた旅人たちは眠ろうと努めた。その必死の努力は、開いた口元と投げ出した四肢によく表れていた。ぼくは起きていて、しばらくは車輌と車輌の間でエマジーンと一緒に、過ぎていく景色を眺めていたが、屹立する富士山の、雪に覆われた平らな頂上が何度か垣間見られた。その他にはおもしろいことはまるでなかった。夜が明けて、黒と白とグレーの絵が一転、鮮やかな色彩を獲得し、緑の田圃、青々とした山、それにときには干上がった川も現れた。名古屋に近づくと、たくさんの工場煙突が空を背にした風景に割り込んできて、郊外電車が並行して走る。名古屋商科大の学生たちに迎えられ、混んだ市電に乗せられて、着いた先は、だだっぴろく、古風で、心地よい名古屋ホテルだったが、ぼくたちは荷物を置いただけで、そのまま名古屋陶器工場見学に連れていかれた。金城女子大で昼食をとったが、疲れているし汚れたままなのに、「両大国の親善」を望むという、おきまりのスピーチをいくつか聴かされた。しかし、その時点での親善には無理があった。つづいての古典的な踊りは、多少は楽しめたはずだが、テッドとぼくは、疲労困憊していてまるでだめであった。一行からそっと抜け出して、3時から8時まで眠り、夕食はルーム・サーヴィスをしてもらった。この気侭な振舞いこそ、いかにもアジアの西洋人らしいではないか。トイレも洋式だったことだし。エマジーンと彼女の友人のシャンディが戻ってきて報告してくれたところでは、名古屋市公会堂でのレセプションはたいしたものではなくて、ぼくたちがいないことも気づかれなかったという。ピューたちのグループは、いちばん新しい最高級ホテルに陣取った。ぼくたちは、エマジーンらとビールを2本飲んで、また眠った。
名古屋の二日目は熱田神宮訪問ではじまったが、そこは退屈な町にぴったりの退屈な社であった。写真撮影は許可されたなかったが、撮影するつもりもなかった。その後は名古屋城で、灰色の石壁と緑色の屋根を眺め、金色のしゃちにはワイヤを卷いて盗まれないようにしてあった。持ってきたスーツケースの具合がイマイチなので、松坂屋百貨店で新しいのを買った。その店には屋上に庭園と動物園があり、兵器や織物それに陶器の工場の煙突が建ち並ぶ市内の眺望が得られ、朝日新聞のモダニズム建築も見られた。警報がいっぱい。むしむしする、混んだバスでの移動。警察は、ぼくたちを尾行するのに、たくさんの時間とお金と努力を注ぎ込んでいるにちがいなく、ぼくの日記も読まれていると、かなり確信をもって言える。イトウさんという若い富豪が、午後に、その壮大な屋敷にぼくたちを連れていってくれた。まず伝統的なふすまと手の込んだ茶の儀式とが見事にマッチしているを見学したが、明かり取りの窓がわずかしかなかった。それから日本古来の茶席に参加した。有名な宗匠が粉状の緑茶と熱湯を泡立てて、見た目も味も豆スープのような作品をつくりだしていた。ぼくたちは築50年の家を検分し、孔雀たちが闊歩する庭で茶菓をいただいた。すべてが贅沢そのもので、ここはとりわけ、名古屋の中心部に比べるとそうであった。
広々とした田圃のなかを30キロ(19マイル)、汽車は走りつづけて、高い山の麓の小さな丘のあるあたりに着いた。そこでは、スタンフォード大のグループはホテルに宿泊したが、ぼくたちは、伝統的な宿屋に収容され、そこは障子と布団の宿で、みんな暑いなかを半裸で走り回っていた。ぼくたちは、男たちが引くはしけで長良川の上流へ、訓練された鵜が流れの速い渓流で魚を穫るのを見にいき、舳先のポットのなかで燃えている火が行く手を照らしていた。鳥が魚を捕らえた後は、食道を塞いであるので呑み込むことができないようになっていて、バタバタしている魚が引っ張り出される。捕える鮎の数から判断すると、これで稼ぎになる商売というよりも、観光客相手の見せ物にちがいない。しかし、蚊には事欠かなくて、博物館ができるくらいたくさんの連中に、ぼくたちはたっぷりやられ、蚊に食われるのと、暑くてべたべたする夜の狭間で、ぼくは少しだけ眠った。
ぼくたちは、古びた路面電車で狭い通りを抜けて岐阜駅まで行き、褪せたブルーの天鵞絨のシートがついた寝台車に乗り込んだ。汽車が懸命に上っていく心地よい丘は、木々と草の緑に満たされ、傍らに美しい砂利道が走っている。東京からずっと刑事がひとり、麦わら帽と雑誌を持ってついてきているのを、ぼくたちはまぎれもない事実として知っていた。仲間のひとりは日本語の単語を「アー・ソー」だけしか知らなかったが、それをさまざまにちがうイントネーションでじつに上手に繰り返すので、日本人の乗客たちのなかには、話すときに声を落とす者もいた。ぼくの飲食関連の語彙は増えつつある。「ビール」は自然に口をついて出るようになったし、食堂車では、「カツレツ」とはポーク・カトリットのことであり、「カリアンドライス」と言えばたしかにライス付きのカレーだと学んだ。結局着いたところは大津で、そこは、琵琶湖の南端にある古い町であり、この大きな淡水湖は、水面から垂直に立ち上がっている樹木に覆われた山々にほぼ完全に取り囲まれている。取り壊された湖畔の館で昼食になり、湖面からの涼しい微風が心地よい。ビールがたっぷり飲めたおかげで、例によっての歓迎スピーチもとりわけ快く聞こえた。琵琶湖ホテルは、広大な敷地を持ち、外側から見ると日本古来のもののようだが、内部はモダンで豪華である。居心地のよい西洋スタイルの部屋が38あり、そのひとつでぼくは、午後ずっと眠って過ごした。部屋の窓から見えるのは比叡山で、ぼくは、デューク大の比較宗教学の講義レポートで、そこの僧兵のことを書いたことがある。貧弱なディナーを済ませると、友達のテッドとエマジーンと一緒に、月明かりの下でボートを漕いだ。話題は日米
学生会議をめぐる政治的な駆け引きのことが主になった。ぼくたちの考えでは、この種の会合をつづけるつもりなら、アメリカのオルガナイザーは、東部の大学をもっとずっと重視しなければならないだろう。
ここに至る2週間の慌ただしい日々の後では、観光地で、涼しく、心地よく、のんびりした、静かな一日を過ごすのは楽しいと言ってもいいであろう。その朝は、ホテルのポーチで絵はがきを書き、日記に書き込みをして日付けを追いつき、半ばアメリカ・コロニアルスタイルの滋賀県庁の背後にある霞んだ山々を覆う雲を眺めながら過ごした。正午にぼくたちは、よたよたしたフェリーに争って乗り込み、船尾のマットに座ると、フェリーは、湖のある船着き場から別の船着き場にふらふらと航行した。日本でいちばん大きな繊維メーカーの東洋レイヨンなどいくつかの工場のそばを通り抜けた。湖が瀬田川に流れ込むところの二重橋の下を通った後、石山(敷地内に岩がいくつもあるところから、石の山と呼ばれるのである)寺に到着し、シトロン(レモネードをフランス語でこう言う)とサンドウィッチ少々のピクニック・ランチが出された。そこの建物のひとつで紫式部が、長い(ぼくにとっては退屈な)恋愛小説の源氏物語を書き綴ったことを知り感銘を受けた。最後はリラックスして、堅いマットに座り、校歌を歌い、盛んにふざけあいながら大津への帰途に就いた。ぼくたちは、リンショウエンでティー・パーティに臨んだが、出てきたのはアイス・コーヒーであった。ここは、製薬会社のワカモトの重役であるナガオ・キンヤの別荘である。極端に質素なつくりであり、徳川時代初期の様式で竹と木と漆喰、それに紙によってつくられ、周囲の環境に溶け入っている。石庭と背の高い葦、それに人工の小さな流れに囲まれて、水際に茶室がある。比叡山と湖の間の細長い土地の田圃を通り抜け、海軍の水上飛行機訓練校の脇を通って、ホテルに歩いて戻った。ミーティングがあり、次ぎの年の学生会議議長にカール・ロニングを選んだ。ぼくたちの政治工作は、ときにはうまくいくようである。今夕は、テッドとエマジーンとぼくとで出かけていって、琵琶湖の冷たくてすがすがしい水で泳いだ。一行は午後11時の消灯を守るようにという命令を、地元警察から受けた。連中は超過勤務手当を払うのに飽き飽きしているのにちがいない。
京都、奈良、そしてシカゴみたいな大阪■
汗っかきだけれど有能な関西地区担当主任の「ジョージ」フジオカに、7月24日の午前6時に起こされ、終日の観光がはじまった。バッグはホテルのロビーに置き、あわてて朝食を少々詰め込み、バスでサカモト村まで運ばれたが、ガタガタの砂利道は、急勾配を上がってケーブルカーの始点までつづいていた。
日本では、どこの寺も、鉄道の駅も、ホテルも、観光ポイントも、たいていイラストがついているゴム印が備えてあり、観光客が記念帳にそれを押せるようになっている。なんともグッド・アイディアであり、風光明媚で由緒のある地域で、ぼくは日記のページにゴム印をたくさん収集中である。
ゴム印で遊んでから、大急ぎで飛び乗ったケーブルカーは、スピードを上げ、静かに比叡山の頂上近くまで登っていった。標高843メートル(2800フィート)の山は、地上よりも涼しく湿っていた。イトスギに囲まれた延暦寺境内のたくさんの寺を見たけれど、時を経ていること以外とくにおもしろくはなかった。古びた寺々に混じってひとつだけ、ピカピカの新しいのが含まれていた。最後に琵琶湖を眺めてから、小さな店々を過ぎて、長い年月にわたって踏み固められた巡礼道を下っていった。店の一軒で売っている粘土の鳩は、買った人が崖から放ってもいいのである。イメイガタケにある、真新しい叡山ホテルでアイス・ティーを飲んだが、そこからは、世界でもっとも古い文化の中心のひとつである京都がある盆地の眺望が得られた。
電車に少し乗ると、もう京都市内で、同志社大学のコロニアル風アムハーストスタイルの建物で昼食になった。それからもう一度汗をかきかき列車で、京都の外国風ショッピング・センターの狭い新門前まで行った。ぼくは彩色した木版画をいくつか買ったが、とても安かった。丘の上の都ホテルで、バスルームのある個室に泊まった。ロータリー・クラブで夕食があり、お定まりのスピーチでは、ぼくたちが「誤った考え方を脱した」ことを会員の皆さんがとても喜んでいるという話であった。そうかな、ぼくたち?
山に囲まれ、涸れた川と、昔の寺、現代的な建物、庭園、そして1000年つづく文化のある京都はほんとうに愉快な都市だ。対照の妙がいっぱい。モダニズム風の京都帝大病院の建物と絹織物の工場を過ぎて後、観光バスがぼくたちを連れていったのは白い漆喰の建物だった。僧侶たちの読経する南禅寺は、17世紀に禁欲的な禅宗の一派の総本山であり、日本人の質素な生活がかたちづくられるのに、この宗派の影響は大きかった。ぼくたちはまた、庭に囲まれた池に建つ三階建ての金閣寺も見学した。あんまり暑くてかゆくて、そこでは十分楽しめなかったのが惜しい。大変な労力で創られたけばけばしいガラクタでいっぱいの門前。手仕事に明け暮れ、みやげ物の代金をふんだくったりまともに要求したり、そんなきまりきった退屈を、人々はよくも耐えられるものだ。
美しい和風のレストランで食事。すべすべの建具、畳、箸、低い塗りのお膳、緑茶、赤い塗りの容器に入った食事。同志社大の教授のひとりが、舞いの儀式を披露した。バスで鉄道の駅に戻ったが、バスガイドはおずおずとまるで怯えた子猫のようで、道を曲がるたびに「ゴザイマス」を繰り返した。
高速の電車は、カーヴの多い軌道を走り、田圃を抜け、ときどき丘に出会いながら、24キロ南のほんとうの古都奈良に着いた。そこでぼくたちを待っていたのは、アメリカ国旗で飾った人力車の長い列であった。詮索好きな人々のいる風変わりな古い街だ。
奈良公園でのぼくは、国立博物館はのろのろと通り過ぎたけれど、鹿に餌をやるときは元気づき、鹿たちがぼくたちにお辞儀をしたときはとくにそうであった。映画会社が撮影をしていたが、俳優たちは、バギオの床屋の雑誌で見たのに似た古風な衣装をつけ、褐色のメーキャップを厚くしていた。馬の如く懸命に丘を登って春日大社に至ると、巨大な杉の木の間に、四つの小さな社が鳥居と3000基の石灯篭に囲まれてあり、巡礼者と観光客たちのための茶店とみやげ物屋が並んでいた。ぼくは8世紀の建築と、奈良の寺とフー・マンチューを彷彿とさせる大仏とが誇示する冶金術の質の高さに感銘を受けた。その当時、ぼくの祖先などは、北海沿いの小屋に縮こまっていたころだ。ほとんどの物件には、正しくも「国宝」あるいは「重要文化財」の表示がある。
近くの素敵な奈良ホテルに泊まる。ぼくの聖人記念日をエマジーンとホテルのバーで祝った。
金曜日はまた、古都奈良からせわしない大阪へ、複線標準軌条のダイイチ電気鉄道でわずか40分の短い旅をする。長いトンネルをひとつ走り抜ける。雑踏の道路、瓦屋根の安アパート、煙を吐き出す煙突、近代的なオフィスビルそしてビジネスマンのためのホテル、大阪は偉大なコントラストだ。「どこの国も、通商の神経中枢を持たなければならない」とロータリークラブの会長は述べた。「諸君の国にはシカゴがあり、我々には大阪がある」彼がそう語ったのは、新大阪ホテルのエアコンのきいた宴会場でだった。
空港の管制塔に似た、朝日新聞の最上階で、ぼくたちはドキュメンタリー・フィルムを観た。市の電気ビルの上にあるプラネタリウムに座って、天空のショーも見られた。自分で努力せずにリラックスして楽しませてもらうというのに、長いことぼくは恵まれなかった。旭のライヴァルの毎日新聞では、アメリカの代表たちの何人かが、いかにして「日本を愛し理解するに至ったか」について演説をした。
同盟通信の大阪支局長S・フクオカに教えられたのだが、近衛は7月22日に内閣を組織したそうだ。枢要な陸軍大臣の任には東条英機中将が就いている。
耳をつんざくような轟音の輪転機室を案内され、活字の長い列を通りすぎた。ひらがなとカタカナ3,000万字がそこにはあるといい、その他に、この新聞の英語版と点字版の活字もある。
ぼくたちのホテルの部屋からの眺めは、まるでシカゴにいるみたいだとテッドも言っている。
外務省のスマからとてもいいニュースがひとつ届いた。それは、今年2月に南京に樹立された王精衛傀儡政権の日本総領事に宛てた手紙の訳文であり、官吏たちとのインタビューを含めぼくに便宜をはかることを求めている。ぼくの中国の旅のほうは、軌道に乗ろうとしているるようだ。
暑い朝を、大阪の広大な鐘淵紡績工場で過ごした。巨大な建物は蒸して尋常の湿気ではなく、ぼくが座ると跡が残った。ここは、世界最大の繊維工場と考えられている。ぼくたちは、長い長い布が、蒸気に当てられ、分別され、染め上げられ、プリントされて、いろいろいろな言語のラベルを貼った巻物になるのを見た。この連中のおかげで、アメリカの紡績工場がたくさんたちいかなくなったのだ。清潔な工員宿舎には、布団以外にはなにもない。プールには水垢が浮いていた。柔道場にはもっとたくさんの畳があった。重工業地帯だということで、例によって写真撮影が許されなかった。市の商科大で昼食になり、また歓迎のスピーチだった。
▼5/28更新
さらば、日本■
シマダ家のテラスでおいしい朝食をいただいた後は、またあちこち巡って疲れる一日になった。すし詰めの市街電車と汽車で、山と海にはさまれた港町神戸を行ったり来たり。1938年の洪水の跡が歴然と残っている。何時間も歩き、汗が雨のように背中を流れ落ちる。
まず汽車で六甲へ行き、山を登ってたどりついた神戸商大の真新しい建物に感動する。わずかな一皿ランチの後、瀬戸内海、山々、工場の煙突を眺め、神戸港にはイギリス海軍を避けて避難しているドイツとイタリアの船や古風な帆船が浮かび、水辺に沿って街が切れ目なくつづいている。大学の図書館は10万冊の蔵書を誇り、学長が南アメリカ関係図書のコレクションを私に見せてくれたので、私は、デューク大教授ジョン・テイト・ラニングの「植民地アメリカの思想」に関する新著を売り込んでおいた。
昼食の後は、街を横断してサンノウラ公園まで長いこと電車に乗り、さらに市の観光会館までの道のりを登って、わずかなお茶とケーキにありついた。これだけのことをする価値はなかったと思う。また電車にガタガタゆられて東へ戻り、中国風の東華楼に至る。汚いテーブルクロスやピータンまでまさに本物で、それでいて食べ物はかなりの味で、ぼくは日本食より好きだ。
シマダ家に戻ってほっとする。マニラのKZRHラジオを聴いていて、アメリカが、日本のアジア侵略に対する報復措置として石油と鉄鋼の輸出禁止を実施する可能性が高まっているのを知った。議会はアメリカの海軍力の更なる増強を考慮中という。
月曜の朝、港湾地区のなかにある広々として清潔そのものの研究所を訪ねたが、そこでは関西地域の絹が、輸出する前に検査される。試験室のなかにはエアコンがきいているところもある。男たちが、繊維の色、均一性それに弾力性をテストするのを眺めた。絹は日本とアメリカ女性にとって大きな意味のあるものだ。
一行から遅れてしまい、テッドとぼくはタクシーを使って大学の昼食会にたどりつこうとしたが、運転手が行き先をひとつ手前のところと勘違いし、おかげでぼくたちは、その後電車で郊外の宝塚少女歌劇の劇場間近まで行ってしまい、カリフォルニアの伝道館風の建物がある新しい関西学院キャンパスのあるところで下車した。しかし、実際の昼食会は神戸の中心部で開かれていたのだ。
戻ったぼくたちは、神戸のオリエンタル・ホテルのグリルでレオ・ゴールドバーグと落ち合って、彼が東亜ホテルに近い丘の上にかれている家で、浮かれた午後を過ごすことになった。彼のアーマ(お手伝いさん)が飲み物をサーヴしてくれ、きわどいアメリカのレコードに耳を傾けたけれど、ぼくにはほんとうのところはよくわからなかった。
その後、高架の鉄道線路の下の街をうつろいた。神戸にいるイギリス人ビジネスマンのリーダーがスパイ容疑で逮捕されたという記事を読んだ。おいしいディナーを食べたけれど、その後がどうも感じがよくなくて、テッドとぼくは、一行にもう一度合流するために、旧式のパッカード・タクシーを飛ばして、山の斜面を回廊が巡っている(涼しく感じるほどには高所でないけれど)、間違いなく二流の六甲ハウスへ行った。満州国への旅について説明を受けた。
今後は写真撮影が事実上できない。日本では、海軍の船舶、造船所、港、大きなビル、工業地域(とくに重工業全般)、それに沿岸の要塞地域を20メートルの高さから俯瞰する写真を正式に撮ることはできないだろう。
なんの予定もないのんびりできる一日がやっとやってきた。赤ら顔のアメリカ人ビジネスマンたちとオリエンタル・ホテルのバーに座っていた。彼らは、会社持ちで暮らし、バーでビールを飲みタダのランチを食べる以外はほとんどなにもすることがないにきまっている。
8月28日にマニラに向かうプレジデント・クーリッジ号で上海を出発する予約を一応入れた。世界情勢がこれほど急速なしかも予期せぬ展開をするので、この旅ができるかどうかわからない。
阪急電車でホテルへ戻った。テッドが書きものをしたいというので、エマジーンと一緒に、急な丘を徒歩で登って走行距離1マイルのケーブルカーの下にたどりつき、六甲山の920メートル(3050フィート)の頂上へ向かった。ぼくたちは息切れはしなかったけれど、たっぷり汗をかいた。ケーブル・カーの軌道のかなりの部分が1938年に流出し、今も修復工事がつづいていた。頂上は涼しかったが湿気が多かった。ぼくたちは山の斜面を歩いて六甲オリエンタルホテルまでたどり、ビールを飲んで、薄靄を通して下方の港をわずかに望んだ。その後、さらに1キロ歩いて頂上に着き、下山した。
7月31日、一日かけて西へ向かう533キロ(329マイル)の長い汽車旅をした。蒸気エンジンの、かなり速い山陽線急行列車で、だいたいは本州の南西部を瀬戸内海に沿って走った。これは神戸から上海へのメイン・ルートにあたるので、ぼくは、太平洋横断の船の旅で、この美しい景色を何度か見ている。
ぼくたちの列車は、狭い水路と山がちの島々の海から引き離されると、そのたびに、田圃や、緑の谷間や、埃の舞う細い砂利道に密集した町々の間を駆け上っていった。息を切らせた蒸気機関車は、複線狭軌の軌道にあえぎながら、トンネルを煙でいっぱいにし、今度は線路をきしませながら全速力で下る。
駅に着くと、駅弁や水っぽいアイスクリーム、それに土器に入った熱いお茶の売り子たちや、赤いキャップのポーターに出会った。ちっちゃなスピーカーから、抑揚のない声が駅名をがなりたてる。ヒ−メ−ジ、オ−カ−ヤ−マ、フ−ク−ヤ−マ、ヒ−ロ−シ−マ。漁船がぎっしりの狭い水路の向こうに、宮島が遥かに見えた。
余地があればどこにでも工場が建っている。餅持参で下関に戻る、しこたまサケを飲んだビジネスマンがひとり、国際親善のためにぼくたちに餅をいくつか分けてくれた。下車駅に着くと、彼は汽車を降りて忽然と消えた。
波止場の待合所には、群集に混じって兵士がたくさんいる。現代風の装飾をした、空調のある急行フェリーは、ジャンクを数メートルの距離でかわしながら、下関と狭い海峡を隔てた門司との光の群れを後に高速で港を出ていく。ぼくは同胞たちに向かって叫んだ。「アジアを見るには準備が要るんだ」
これが日本との別れであった。検閲済みのニュースと、夏のへばりつく暑さという欠点さえなかったら、この国で暮らせるのだが。楔形の枕を手にして、下着の男や泣き叫ぶ子どもたちと同じ、大きな雑居室で船旅をするのは、とても奇妙だ。キャシー・ビアズは、この待遇に激怒した。トイレはうずくまってする便器で、トイレット・ペーパーがなく、洗面台で熱い湯は出るけれど、タオルも石鹸も全然ない。
▼5/30更新
アジアへ、ソウルへ■
ギャーギャー泣き叫ぶ赤ん坊には何度も妨げられたけれど、それでもマットの上でかなりよく眠ったのだが、とうとう、があがあ言うスピーカーから、モノトーンのおしゃべりとレコード音楽がはじまってしまった。
7時間後にはもう、下関から120マイル、朝鮮半島の南の端にある釜山の、ほとんど陸に囲い込まれた港に、ぼくたちの船は入っていった。ちょうど煙った青い山々の上空に太陽が昇ってきたところで船が、偽装した石油タンクを過ぎ防波堤に沿って進んでいくと、そこに見えてくるのはぼくたちにとって初めてのアジアであり、大日本帝国の大陸部分の突端である「チョーセン」との最初の出会いであった。
まだドックに入らないうちに大騒ぎになった。ぼくたちが軍事施設を写真撮影したというのである。外務省の関係者が直ちに助けに来てくれて、彼が担当しているぼくたち一行にはだれもカメラを取り出している者はなく、罪はドイツ人旅行者のひとりにあると指摘した。
埠頭から、標準軌道の列車に乗り込んだが、車室の椅子はひとりひとり別になっていた。短いトンネルがたくさんあり、そこに入るたびに、機関車が吐き出す柔らかい煤煙が車内に充満することを除けば、旅はとても快適だったけれど、食堂車の食事は貧弱で、ビールがまったくなかった。
鉄道は複線。傍らの砂利道は、なお各所で分断されている。赤い土、泥だらけの村々に、日の丸が翻って、節約と勤倹を唱う祭日を祝っていたが、キリスト教会の尖塔もふたつ見えた。電線や工場はほとんどない。広くて浅い、砂利の土手に囲まれた川が次第に上って青々とした小山となり、やがてほんとうの山が隆起する様は、ぎざぎざがぼやけた、中国の渦巻き模様を思い出させた。
首都京城(朝鮮の人にとってはソウル)へ約450キロ。ぼくたちは、スーツケースとともに、煤で汚れた顔を、日本国有鉄道が所有する1915年竣工の巨大な名建築、朝鮮ホテルへと運んでいった。黒くなった顔を一生懸命洗ったが、そのカイもなく、そのままバスで朝鮮総督府へ向かった。そこは、大理石と煉瓦とフレスコ画の数々で彩られた堂々たる五階建てで、元のアメリカ議会図書館をかすかに思い出させた。朝鮮を現代世界の一員とするために努めた日本の功績に関する英語のドキュメンタリー映画をひとつ見せられた。その後、役人のひとりが、ヨーロッパの植民地官僚並みの物憂げな調子で、「我々は山の緑を回復しようと努力しているのだが、樹木を植えるがはやいか、土地の連中が切り倒して薪にしてしまう」と語った。
朝食のときに、エマジーンは、自室にあった掲示を書き写してきて、読み上げた。「新東洋建設に邁進する日。来るべき民族融和を実現するためにいかなる苦労にも立ち向かう気持ちを抱きつづけるための日。食堂は節約スタイルの軽い食事のみ供し、バーではアルコール類を出さない」
バス(ここではガソリンで動いている)で南山まで行って、朝鮮神宮から京城を望見する。正真正銘の現代建築がたくさん見られたが、なかでも圧巻は赤いイギリス国教会で、背後に山々が煙っている。公園には砂利が敷きつめられ、石灯篭や、たくさんの奇怪な狛犬たちが、参道沿いに並んでいる。徳寿宮と素晴らしい庭園の傍らを通ったが、建物には入らなかった。
まばらな髭と、馬の鬣のような尖った帽子に、ゆったりとした白い衣装をつけた老人がおおぜい。紙幣に描かれた髭の男の不健康バージョンというところか。女たちは、ふっくらした白いブラウスと青いスカートをまとっている。
古い宮殿の敷地にある総領事館は、アメリカの土地だから気分がいい。マーチ総領事は、太ってもったいぶった旧派の外交官で、朝鮮風の私宅をぼくたちに見せてくれた。そこはアメリカ・スタイルのインテリアで、大恐慌期の絵画が一枚、総領事の妻の古風な木工細工と競い合って、快適なことこのうえない。総領事の英語秘書のオダと一緒にアフタヌーン・ティーをいただいたが、彼は気のいい感じの人物だった。満州国の地位について率直に語り、中国本土は別だと述べた。一方朝鮮については、ハワイなどのアメリカ信託統治領と比較しながら、結局、アルジェリアが現在フランスの一部であるように、ここも日本の一部分となるだろうという見解だった。
■「ハルセマ日記」について
「見よ東海の空明けて、旭日高く輝けり。‥‥」
いまではほとんどの日本人が知らない、この曲が声高らかに歌われた1940年は、「皇紀2600年」を祝賀する行事が日本中で行われていた。日本軍は、数年前から中国大陸に「進出」し、もはや後退が不可能なほどに戦いに深入りしていた。八紘一宇、一億一心の標語がつくられたのもこの年である。翌41年には、真珠湾を奇襲攻撃して、太平洋戦争という破滅の道に踏み出していく。
この夏7月、物情騒然の東京に、アメリカ人学生50人あまりがやってくる。これを迎える日本人学生百有余人。若者たちは、津田塾大のキャンパスを舞台に「第7回日米学生会議」を開催する。「日米学生会議」は、日米の相互理解と英語力のアップを目指して、日本の学生グループの主導で、34年に東京で第1回が開かれた。その後、日米がまわりもちで、1年おきに主催してきた。40年は日本の番であった。これが戦前最後の「会議」になるのである。
アメリカからの参加者は、やはり西海岸の大学生が多かったが、そのなかに、珍しく東海岸のデューク大を卒業したばかりの、ジェイムズ・ハルセマという21歳の若者が含まれていた。ハルセマの父親は当時アメリカの植民地だったフィリピンで、植民地政府の要職に就いていた。ハルセマは、少年時代から、アメリカとフィリピンを往復する際に乗る船が何度か神戸と横浜に寄港する経験をした。上陸して、神戸・横浜間を汽車で旅したこともある。日本について、他の学生たちよりも、多くの知識を持っていた。また、東アジアの政治情勢に大きな関心を抱いてもいた。
ハルセマは、アメリカ出発前から、日本への旅の日記を書きはじめた。
会議が終わると、彼は、日本列島を西に向かい、下関から船で釜山に上陸した。朝鮮半島を北上して満州に至り、さらに北京、上海とたどっている。8月の末になっていた。その間、日記は絶えることなく書かれつづけた。
大戦前夜の東京のやりきれない気分も、なお伸びやかな田舎の風情も、そして、日本軍「占領」下の大陸の緊迫した空気も、21歳の日記がみごとに写しとっている。
- ハルセマ氏は、いまも元気でいらっしゃる。この日記の存在は、長く公になっていなかったが、カンザス大のグラント・グッドマン名誉教授(日本現代史専攻)が、ハルセマとの雑談中に偶然にその存在を知り、公表を勧めたものである。日本語への翻訳許可については、同大東アジア研究センターのウィリアム・ツツイ準教授の尽力があった。
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ジェイムズ・J・ハルセマ(左)とグラント・グッドマン名誉教授。1999年撮影 |
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■ジェイムズ・J・ハルセマの略歴
1919年1月1日 オハイオ州ウォーレンに生まれる
1936年 フィリピン・バギオのブレント・スクール卒業
1940年 アメリカ・デューク大卒業 専攻は歴史学
1949年 ジョンズ・ホプキンス大で、国際関係論の修士号取得
1958年 国立国防大卒業
- 1949年6月18日 マーガレット・アリス・クリーヴランドと結婚 息子と娘5人 孫5人
- 1934−36年 『マニラ・デイリー・ブレティン』紙バギオ版に寄稿 40−41年 編集長
1941−45年 バギオの日本陸軍に抑留され、マニラのビリビド刑務所で過ごす
1945−48年 AP通信記者としてフィリピンとインドネシアに滞在
1949−79年 アメリカ政府の対外情報・文化担当官として、シンガポール、マニラ、バンコク、カイロ、サンチアゴ、ベルギー、エクアドル、ポーランド、ルーマニア、南ヴェトナムに勤務
1979年 引退
- 1949年以来 ペンシルヴェニア州チェスター郡ウォーレス・タウンシップの住民
フィリピン研究家 著書に『ブレント司教のバギオ・スクール』(1987)、『E.J.ハルセマの植民地経営』(1991)がある ★
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