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★1995/アメリカ野球の危ういいま 
野茂が、ドジャースへ戻ってきた。アメリカ野球の季節がはじまる。日本野球の季節もまた、同じころにやってくるけれど、それについては触れないでおこう。
7年前の1995年、野茂が大活躍をした当時、ファックス・マガジンと称していた当サイトWAVEtheFLAGに書いた原稿を、手を加えずに再録する。
なお、この原稿は、『オンデマンド版WAVEtheFLAG』にも収録されている。
野茂、がんばる■
日本人大リーガー野茂英雄の活躍に、日本のメディアが大騒ぎをしている。つられて総理大臣までが激励の手紙をファックスしたそうである。
アメリカの野球ファンもプロ野球関係者も、NOMOに対して、最大限の賛辞を送るとともに、新人ながらオールスター戦に先発させることで、彼の力を率直に評価している。彼らにとってはどこの国の人間かなど関係ない。ナイス・ボールを投げたら、素晴らしいと言うだけのことである。これに対して、ハワイ出身の小錦が、大関にまで昇進し、横綱を目前にしたときに、日本人からどんな扱いを受けたかを思い出さないではいられない。同じくハワイからやってきた曙(日本流の言い方をすれば、アメリカ人が日本の相撲を制覇したことになる)がいかに強くても、冷ややかに見られていることも。できれば貴の花に勝たせたいとの願望がつねに伏在しているようである。
相手に受け入れられるのをひたすら喜ぶ一方で、相手を受け入れることにはひたすら消極的というのが、日本の「文化的性格」であることを、これらの事実が明快に物語っている。日本人は日本人仲間だけのために存在している。日米経済戦争泥沼化の根底にあるのは、経済でも政治でもなく、このカルチュラル・キャラクターではないか。野茂に沸き立つ日本は、不用意に、そのほんとうの姿をだれもがわかるようなかたちでさらしているかのようである。
さて、野茂のがんばりにケチをつけようというのが、本題ではない。
彼の華々しいデビューは、アメリカ野球の現状を抜きにしてはありえない。衰退の一途をたどり、かつての国民的娯楽の栄光をフットボールとバスケットボールに奪われてしまって、先のシーズンから続く長いストライキの末に遅れて開幕した今年、ルーキーNOMOは登場した。彼は、日本のメディアが言うような、少年たちの野球への夢を取り戻させたなどという、のんきな存在ではない。アメリカの「国技」の、危ういいまを象徴するエピソードのひとつとして、マウンド上の彼を位置づけるのが正しい。
現在のアメリカ野球にはヒーローが不在である。過去を振り返るのに忙しいのは、そのためである。ボルティモアのオリオール・パークには、このほどベーブ・ルースの巨大なブロンズ像が建てられた。ミッキー・マントルがアルコール中毒の末に肝臓移植手術を受けたニュースは、ネットワーク・テレビで大きく取り上げられた。ストライキのために90年ぶりにワールド・シリーズが中止された昨年の秋には、PBSテレビが、四夜連続で、150年の野球の歴史をたどるシリーズを放映していた。
この年は、サンディエゴ・パドレスのトニー・グウィンが、テッド・ウィリアムス以来53年ぶりに打率4割を達成するという、確度の高い可能性があったが、ストライキによって断ち切られた。他にも50ホーマーや平均1試合1打点の記録などがかかった選手たちがゴロゴロいながら、すべて雲散霧消したのが昨シーズンであった。また栄光のニューヨーク・ヤンキースがアメリカン・リーグ東地区のトップを走り、久し振りにワールド・シリーズに出場かと言われたけれど、この期待もあっさり消えた。大リーグそのものが、生まれるべきヒーローと、起こるべきドラマとを、自ら圧殺してしまったとも言える。
そして迎えた今年、NOMOは、ヒーローを渇望し、失われたドラマを惜しむファンのための「代替インスタント・ヒーロー」の役割をふりあてられた。日本での大フィーバーが、火に油を注いだ。日本からの取材陣が、アメリカ側のマスコミの標的になっているが、スターNOMOのイメージは、こうして肥大させられ、野球ファンの空虚を、まるで空腹時のファースト・フードみたいに、闇雲に埋めてくれる。
アメリカ野球は、なぜ駄目になったのか。そして、ふたたび立ち上がって未来に踏み出すことはあるのか。このあたりを検討して、「野茂騒動」の裏を返してみることにしよう。
ドジャースという球団■
あまりにもぴったりの偶然だが、NOMOが投げるロサンジェルス・ドジャースは、アメリカ野球の隆盛と、それと背中合わせになっている没落との原因をつくった球団である。1979年に、オーナーのウォルター・オマリーが死去したとき、超ベテランのスポーツ記者レッド・スミスが、『NYタイムズ』紙上に弔文を書いた。死者を弔う文章としては、かなりの異例に属するもので、辛辣な批判にあふれた、ハラハラするような内容であった。スミス自身も3年後には、77歳でこの世を去ることを思い合わせると、よほどの覚悟で、死者を鞭打ったのにちがいない。
ここで主に取り上げられているのは、オマリーが、ドジャースのフランチャイズを東海岸のブルックリンから西海岸のLAに移した経緯である。この一事が、アメリカ野球の今日へつながるすべての出発点であった。スミスは、次のように書く。「オマリーは、野球はビジネスに尽きると、明言した最初の人物だった。彼が所有し彼が思いのままに扱うビジネスであり、70年近くにわたりチームを支援した地域社会はこの問題(フランチャイズの移転)についてなんらの発言権もないことが明らかになった。あの日以来、野球の面白さの幾許かが失われた」
ドジャースは1957年のシーズンを最後にブルックリンを去ったが、それまでのドジャースは、球団収入で群を抜いていたし、地域との関係という点でも、これほど熱狂的なファンに支持されるチームは他になかった。オマリーは、当時のホーム球場エベット・フィールドが古くなったので、ニューヨーク市当局と交渉して、新球場の建設計画を進めていた。ところが、敷地をどこにするかで市と折り合いがつかないでいる間に、ロサンジェルスの地元有力者たちと折衝し、あっけなく移転を決めてしまったのである。しかも、同じニューヨークにフランチャイズのあったジャイアンツ球団のオーナーを説得して、同時に西海岸へ進出する(ジャイアンツはサンフランシスコに移転)という、計算しつくした行動に出た点でも、野球の「ビジネス性」を露骨に表現した。
大リーグのチームには、利潤追求の私企業の側面と、それと同じ比重で、地域の代表という半ば公共的な側面を持つ伝統がある。したがって、すべての企業に適用されるはずの反トラスト法で例外とされているわけだし、メディア報道でも球団名よりも地域名が優先されるところに、つねに変わらない本拠地都市との深いつながりがあらわれている。球場建設には、地元自治体が資金を出すことが、最近では当然視されている。
50年代は、フランチャイズを移す動きが活発になってきた最初だが、それでもなおミシシッピ川の東側にとどまっていた。ところが、炯眼のオマリーは、南カリフォルニアの発展に着目して、一気に太平洋岸へ飛んで、ビジネス・チャンスをいちはやくつかもうとした。19世紀のアメリカ社会が西へ西へとフロンティアを求めて移動したのと同じ行動様式が、20世紀のプロ野球を特徴づけているわけである。オマリーのドジャースは、その意味ではパイオニアであった。
しかし、LAドジャースの誕生は大リーグを支えてきた、ビジネスとスポーツのバランスを突き崩すきっかけにもなった。ファンは、オーナーが利益を追求し、選手には生活がかかっていることを百も承知のうえで、球場に、夢や憧れや成功といった不定形の幻を見出そうとしてやってくる。それがプロ・スポーツの本質である。幻は、もちろん実質としての金銭の土台の上にのみ成り立つ。しかし、それだけにいっそう、土台があからさまになることを避けようともする。この微妙なファン心理を平気で逆撫でしたのがオマリーであった。
移転にあたって、彼は、「ブルックリンのファンのみなさんがいままで同様に当球団に絶大な支援をつづけてくださることをお願いするのみである」とだけ述べている。ドジャースとジャイアンツが消えた翌年の58年には、唯一残ったヤンキースのホーム・ゲーム観客動員数は、1428,438人で、前年の三球団合計に比べると、180万人近く減っている。ドジャースはいなくなったからヤンキースというわけにはいかないファンがいかに多かったかを示している。
阪神タイガースが「札幌タイガース」とか「鹿児島タイガース」になってしまうことを想像すれば、ブルックリンのファンの落胆と絶望がややわかるのではないか。
アイデンティティの喪失■
1993年のシーズン開始前のオープン戦で、この年で27年にわたる長い野球生活を終えようとしている、テキサス・レンジャースのノーラン・ライアン投手が、5度の首位打者に輝くウェイド・ボックスを相手に投げたことがあった。ボッグスと言えば、ボストン・レッド・ソックスそのものみたいな選手で、レフトの定位置に永遠に居座っているかのようであった。ところが、このバッターボックスのボッグスは、ヤンキースのストライプのユニフォームをつけていた。後に述べるフリーエージェント制によって移籍を果たした91名のベテラン大リーガーの、このバッターもひとりになっていた。
ライアンが、『タイム』誌で、「時代だね。大リーグのチームは核になる選手を守ってくれて、来る年も来る年も変わることはないと思い込んで育ってきたのがぼくたちだ。しかし、もはやその考えは通用しないのだ」と感想を述べている。
チームも選手も、アイデンティティを喪失し、北アメリカ各地を浮遊する「いま」の発端は、オマリーによってつくられた。
「野球の本質」■
チームの拡散と、その数の増大は60年代に加速するのだが、野球に「革命」をもたらしたのが、65年に完成したヒューストン・アストロドームには触れておくべきだろう。球場が屋内になると、グラウンドの芝が枯れてしまう。そこでモンサント社が、プラスチックのグリーン「アストロ・ターフ」を開発する。この人工芝は、さらに改良がつづいて、70年代以降、各球場で採用されるわけである。往年の名選手テッド・ウィリアムズは、「神の御技に勝ることが我々にできるとは思えない」という、人工芝反対論を述べたものであった。
ドームについて、最初に反対を唱えたのは、『ニューヨーカー』のコラムニスト、ロジャー・エンジェルである。彼は、野球を、すべてが観客の前にさらされる、きわめて明瞭なスポーツだと定義する。試合が開始され、一球一球、一打一打を見つめながら、グラウンドを前にしたひとりひとりのなかで、ゆっくりと興奮と緊張がたかまっていく。ところが、ドームは、「環境の暴力」によって、無理やりその気持ちに枠をはめて、操作しようとする。スコアボードやジャイアント・スクリーンが勝手にパーフォマンスをし、イニングの合間には、女性やマスコットがグラウンド上で踊ることで、楽しみ方を均らしてしまう。これは「野球の本質」を蹂躙するものだというのが、その反対論の骨子である。
『ワシントン・ポスト』に依る政治評論家で、シカゴ・カブスの熱狂的なファンでもあるジョージ・F・ウィルが、この議論をさらに一歩進めている。
「野球はまた、映像文化よりも文字文化に適した表現形態である。野球ゲームは秩序ある経験であり、テレビで育った子どもたちの散漫な精神構造にとっては、あまりに秩序がありすぎる。野球は文章のように、線的な連続であり、文節のように、順を追って進んでいく。しかし、これを読むためには、野球独自の識字力を必要とする」 そこで、ドームという環境が、さまざまな「気晴らし」を挿入することで、連続性をぶつぶつ切ってわかりやすくし、野球をテレビに受け入れやすくしたというわけである。
ドーム球場へ行くと、なにかテレビで見ているときの延長のような、あるいはテレビのなかにいるみたいな、奇妙な非現実感が、こうして醸成される。テレビと同じ類いで、しかも自分をも包み込むほどに拡大された経験を求めて、そこへ出かけていく。そして、テレビと球場の間を行き来しながら、野球のなかに閉じ込められるに至る。このプロセスは、エンジェルが言うような「(日常からの)逸脱という緑豊かな場に」身を置く、かつての観客とは、明らかにちがっている。野球が、人を麻薬のように呪縛し、この快感にそそのかされて、いっそうゲームにのめりこまないわけにはいかなくさせる。
過去の野球を愛する人々がなんと言おうと、ドームにはじまる「革命」をとどめることはできない。おそらく、選手の「反乱」という、オマリーが率いる球団経営者たちが予期しなかった事態が発生しなければ、テレビという武器を最大限に活用して、アメリカ野球は新たな黄金時代を永続できたにちがいない。
70年代、80年代を通じて、身分の自由と富の分け前を求める選手たちの「反乱」は、観客動員記録の度重なる更新と、巨額のテレビ放映権料という、アメリカ野球の歴史にかつて例を見なかった経済的な繁栄と平行して、執拗に繰り返された。その結果、ビジネスとしての野球が、いっそう衆目にさらされるようになる。オマリーに端を発したバランスの崩壊が、さらに促進される。スポーツはどこへ行ったのか、と人はまもなく問いかけることをはじめるであろう。
ストライキ■
20世紀はじめのウィリアム・ハワード・タフト以来、大リーグのシーズンがはじまる日には、大統領が始球式をして、開幕を祝うのが恒例になっていた。ところが、1972年には、当時のニクソン大統領のスケジュールには、この儀式が組まれていなかった。首都ワシントンは、この年、50年ぶりに地元フランチャイズ・チームを失っていた。ワシントン・セネタースが、テキサス・レンジャースとなって、移転してしまったからである。
この年の開幕日には、大統領の姿がマウンドになかっただけでなく、どこの球場でも一球も投げられず、一人の打者も打席に立たなかった。史上初めて、大リーガーたちがストライキに入ったからである。
経営陣と選手側とのいさかいは、現在の時点から見れば、ささいなものであった。引退した後に支払いを受ける年金の支給率を、生活費の増加にシフトして17%アップするという選手側の提案を経営側が拒否した。年金の原資には、テレビ放映権料の一部を当てるきまりになっていて、このころすでにかなりの余剰金がでるぐらいに、テレビからの収入は多くなっていて、これを充当して、経営者に直接の負担をかけないようにすればいいと、選手側を代表するマーヴィン・ミラー弁護士が示唆したが、交渉は決裂したのである。
このストライキは13日で終結したけれど、これで自信をつけた選手側は、4年後の1976年には、プロ野球協約のなかの「制限条項」の撤廃を勝ちとるに至る。
それまで選手はプロ入り時にプレイしたチームに拘束され、トレードか引退以外の手段では、自由を得ることができないことになっていたが、今後は、給与に対する不満があれば第三者の調停を求めることができ、条件のいい他チームへの移籍を求めてフリー・エージェントになるのも自由ということになった。
球界発展の「方策」■
今年6月26日、日本のプロ野球制度改革本部の諮問委員会が、「球界の発展の方策」を2年にわたり討議した結果として、最終答申をまとめ、コミッショナーに提出した。日本でフリーエージェント制が実施されたのが、ちょうど2年前で、この答申の主な内容は、制度の「見直し」に関するものである。移籍の場合の年俸据え置き、高額の年俸を受けている選手を対象にした増額率の制限、ドラフト逆指名選手のフリーエージェント資格剥奪などの提案が盛り込まれている。選手に球団を選ぶ自由を保証する制度を骨抜きにしようとするものであるのは明らかである。
「諮問委員会といっても、メンバーは十二球団の社長クラスで構成されており、日本野球機構外からの委員はいない。その結果、答申は経営者の視点からの結論になった。数字を出して具体的に述べているのは、『年俸適正化』の項目だけ。フリーエージェント(FA)選手の年俸をいかに抑えるか、が答申の柱になっている」(朝日新聞 95・6・27)
アメリカ球界の経営者たちは、ここ20年にわたり、フリーエージェント制度を葬り去ろうと悪戦苦闘をつづけてきた。この諮問は、アメリカの「教訓」から大いに学んだ結果のようである。
72年にはじめて行われた選手の試合ボイコット、つまりストライキは、80年、81年とつづき、90年になると、暗礁に乗り上げた契約交渉に業を煮やした経営者側が、一部の春季キャンプでロックアウトを実行している。さらに94年の未曾有の大ストライキへとつづくのだが、すでにこの事態は、前の年から予想されていた。93年で切れる野球協約の改定にあたって、経営者側が、給与に上限を設けるサラリー・キャップ制を強力に推進し、一方の選手側が現行協約を継続することを主張して、両者が妥協する余地はほとんどないことがわかっていた。だから、93年のシーズン開幕時の『タイム』誌は、特集記事でThe
Last Great Seasonとうたい、「来年は、まったく新しい、さらに悪い野球になるだろう」と正しく予見していた。
アメリカのように追いつめられる前に、早目に手を打っておこうというのが、日本野球の経営者たちの先見ではある。しかし、彼らの得た「教訓」そのものの当否が問われなければならないであろう。
経営側の対抗措置■
「制限条項」が撤廃された翌年の77年、大リーグ選手の平均給与は2倍になり、5年後には5倍にはねあがって、現在は約20倍になっているはずである。当然、経営者の利益に食い込む。そこで、彼らはさまざまの対抗措置を打ち出してきた。フリー・エージェントで選手を失ったチームに、新人のドラフトで優先権を与える。一定数の保留選手枠を設け、その枠外のプレイヤーを見返りとして提供する。選手側のストライキに備えて、入場料から差し引いてストライキ基金を設けたり、イギリスのロイド保険に依頼してストライキ保険を組んでもいる。これらは、いわば合法的な手段だが、経営者たちは「談合」によって、ひそかにフリー・エージェントになった選手の移籍を阻もうとした事実もある。
サラリー・キャップは80年代にいったん提案されて、ひっ込められ、再度登場してきたもので、年俸を頭打ちにしてフリー・エージェントへの意欲を失わせようとする、最後の一手と見られる。
しかし、力のある選手が実力を売ろうとし、これを高く買おうとするのは球団経営者自身であることは自明である。年俸の急上昇がカセになっているというのならば、それは、球団同士の「入札競争」の結果に他ならない。自業自得、自縄自縛である。
まだフリー・エージェント制が実施されてまもない77年に、経済学者のポール・サミュエルスンは、こんな予言をした。
「ルールが新しくなれば、分配法が変わり、野球の選手たちもハリウッド・スターや売り出しのコピーライター、あるいは大豆の値動きを予見できる連中と同じような支払いを受けることになるだろう」
これに対して、かつて『いちご白書』を書いたジェームス・S・キューネンが、「それにしても、あまり高すぎるのは不合理では?」と異論をはさむと、この近代経済学の権威は、「消費者が対価を払うのは、合理的なものばかりとはかぎっていない。デオドラントを買うのと同じことだよ。それに、選手のサラリーが増えても我々の支払い額が増加するわけではない。取り分の再分配でしかない」と一蹴したものである。
いままで、「パイの切り方」に関与できなかった選手たちの給与が急増することの必然と同時に、ここに合理性の基準をあてはめることの「非合理性」が指摘されている。当然、パイをどこで切るかをあらかじめ決めてしまうような方式は論外なのではないか。
ところで、フリー・エージェントは、大きな効果をもたらした。観客数は、83年から10年をとると25%増え、89年には、CBSとの間に4年で11億ドルという空前の額でテレビ放映契約が交わされるに至っている。しかも、大金を投じて有名選手を抱え込んだチームがかならずしも優勝するわけではない。オークランド・アスレチックスとシンシナティ・レッヅの黄金時代は70年代半ばに終わり、78年のヤンキースを最後にワールド・シリーズの連続制覇もなくなって、いまでは「優勝まわりもち」状態である。
「これほどたくさんの人が野球を見るようになったのは、ひとつには選手たちが優れたプレーをするからである。また、これだけの人に見られるから、プレイの水準は上昇しないわけにはいかない。重要なのはお金である。お金が才能を引きつける」
ジョージ・F・ウィルは、1989年の著書 Men at Workのなかで、こう述べている。この明快な指摘は、「五千五百万、五千六百万の人々が毎年、入場料を払って球場にやってくる。しかしだれひとり、オーナーを見たくてチケットを買う者はいない」という断定と対になっている。
選手たちのプレイの魅力に対して代価を支払う。そのかぎりで、彼らがどのくらい稼ごうと、それに対して異を唱えることはない。そこから、きわめてラディカルな未来野球の構想が出てくる。つまり、オーナー制度をやめて、選手自身がリーグを運営するというアイディアである。(もうひとつ、自治体が球団を所有し運営するというアイディアがあり、実行されかけたこともあるが、成功していていない。)
現在、経営側は選手の人件費が財政状態を圧迫しているという一般論を主張しているが、実際には、裕福な球団と貧乏な球団の格差が広がっていることが問題なのである。これにもテレビがからんでいる。フランチャイズのマーケットの広さによって、ローカル・テレビからの放映権収入が極端にちがうのである。ニューヨークやロサンジェルスなどと、例えばミルウォーキーは段違いである。富めるチームはますます豊かになり、貧しいチームはますます貧しくなる。
ただし、どのチームとも「大リーグ」という大きな傘の下で試合をしていることには変わりがない。この原則に立つならば、チーム間で利益分配をしてもいいはずである。球団の公共的側面を顧慮すると、そうなる。プロフットボールのNFLでは、このシステムが実施されているのに、大リーグではいっこうに実現する気配がない。
今年のシーズン開幕を前にして、スト終結の見通しが立たなければ、代替選手でチームを編成して開幕を強行しようとした経営側の28球団のなかで、ただひとり反対を唱えたのが、オリオールズのオーナー、ピーター・アンジェロスである。
彼は労組弁護士の出身で、労使慣行を無視した行為を認めようとしなかった。また、自チームのキャル・リプケンが、ルー・ゲーリッグの連続出場記録に迫っているのを重視して、「私は、リプケンに不利になることはけっしてしない」と、きわめてまっとうなことを述べている。
このアンジェロスが、紛争解決策として、ほんとうに経営が苦しいのなら各球団が資産情報を公開して立証するべきだと、もっともな提案をしている。これが行われると、選手たちは彼ら自身の力で給与を稼ぎ出していること、また、オーナーのためにサラリー分よりもっと多い働きをしていること、これらの事実が明らかになるであろう。選手自身が経営主体となり、専門家グループに管理を任せるシステムの可能性が、そのときこそ浮上してくるにちがいない。
野球ビジネス■
野球小説『ザ・ナチュラル』の作者バーナード・マラマッドが、「野球の歴史を通して、その本質は神話である」と断言したことがある。
野球は、神秘に彩られている。だからこそ、どこまでも昔にさかのぼって物語られる。小説にもなる。野球を扱った書物の数は、他のスポーツをすべて合わせたよりも多いであろう。語っても語っても語り尽くせない。ファンは、あの日あのときの細かいプレーを巡って、何時間でも激論を戦わすことができる。1948年6月13日、ヤンキー・スタジアムのホームベース近くで帽子をとり、満員のファンに引退の挨拶をする背番号3、ベーブ・ルースの雄々しくも寂しい後ろ姿の記憶は、当時生まれてもいなかった世代のなかにさえ、鮮やかによみがえる。
近年の経営側と選手側の激突は、それらすべての神秘に対して、足蹴りを食わせたようなものである。「野球ビジネス」があからさまになり、ファンは、怒りを抑えかねている。
この点では、経営者、選手どちらがどちらということもない。ただし、ぼくたちを幸せにしてくれるのはだれかを考えるとき、それははっきりしている。アメリカが「幸福の追求」を国是としているかぎり、瀕死のアメリカ野球を蘇生させる道の出発点は、選手にある。
1984年に、ウォルター・オマリーの子飼いだったボウイ・クーンの後任としてコミッショナーに就任したピーター・ユベロスは、「コミッショナーの責任の第一は、試合とファンに対してである。すべてはここからはじまる。つづいては、監督、選手、オーナー、いやそうではない、やはり選手が先んじる」と、就任の挨拶で述べていた。(彼は経営手腕を発揮して、球界に多大の収益をもたらしたが、一期4年で辞任した。選手寄りの姿勢が球団経営者たちに嫌われたからだと言われている。)
神話の復活を託せるのは、選手たち以外にはない。ファンには、そのことがよくわかっているからこそ、NOMOの活躍に惜しみない拍手を送るのである。もう一度、ウィルの言葉を引くならば、「優れた力への正当な評価が減退するとき、幸せもまた後退する」。わずかな夢のかけらを拾いあげて、これを、日本からやってきた、うつむいてぎごちなく笑う、不思議な選手に投影する。近い将来、大リーグを目指すらしい巨人の桑田も横浜の佐々木も、この点を肝に銘じるべきであろう。
ヒーロー野茂をひたすらもちあげる日本のメディアは、醜悪である。アメリカ野球の現状への認識などそっちのけで、野茂コールに明け暮れている。まして、足元の日本プロ野球が、経営側の「悪しき先見」によって、蹂躙されようとしていることなど、さらに気にしていない。★
(ファクス・マガジン『WAVEtheFLAG』10号・1995年5月発行・掲載原稿を再録)
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