U.S.A.
2007.9.18.
american 1973
カット
まえがき■ 子ども解放■

まえがき■

 部屋の窓からは、向かいのアパートの赤茶けた壁が見える。その隙間からは、マンハッタン・ウェスト10丁目の通りと,ブルーになったことがないみたいな空がわずかに覗いている。部屋のドアは赤く、そこからたまに日本のニュースが侵入してくる。ニューヨーク・タイムズの1面か2面の記事として。

 そのひとつは、日本が国連の常任理事国になることを求めていると伝える。国際政治の重要な交渉の場からのけものにされていると、日本が不満を募らせているという。にもかかわらず、日米の親善関係は今後とも不変であるとも伝える。ニューヨークの日本人殺害事件で日本の世論が神経質になっていること、ドルの平価切り下げをアメリカの独断専行として、日本の政府高官が非難したニュースも、この赤いドアを通過してきている。念のために言うが、いまは1973年である。

 小さな窓がひとつきりの、暗く小さな部屋。そこに入ってくる日本はひどく苛立っているように思える。先行グループに遅れたマラソンランナーが、スタミナの配分を忘れ果てて、スピードアップしているようでもある。

 こういうレースからは早く脱落したい。先頭集団のことなど忘れ、草の上に座って、ビールを飲もうじゃないか。ともかく体力に自信がないのだから、脱落してもいいじゃないか。だれもが日本国家に付きあって走りつづけなくてはならない理由は何処にも見いだせない。

 新たにレースに加わり、たちまち先頭グループに追いついたかに見える中国。マラソン・ランナー君原健二が、苦しげに首を振りつつ走る美しい姿が与える感動に比べたら、なにほどのこともないではないか。

 ヴェトナムでの停戦が実現してから少し経った日の午後、泊まっていたアパートメント・ホテルのエレベーターで、黒いミュージシャンと一緒になった。紫のシャツの胸をはだけ、ビーズのネックレスをした男であった。6階から1階に降りるまでの、ほんの短い間に男が話題にしたのは「停戦」であった。ニューヨークの人間は、ふと思いつくと、口に出さないではいられないらしい。

 男は赤いサングラスの縁を黒い指で撫でながら、「4年遅れたな。それだけ。もうアメリカはないってことだ。それだけさ」と、同乗していた3人のだれに対してということもなしに、言った。そして、真っ白い歯を見せて笑った。エレベーターが停まり、ドアが開くと、そこは1階であった。男はバンケット・ルームに向かって、大股に歩いていった。

 バンケット・ルームでは、スティーヴィ・ワンダーがリハーサル中だったから、エレベーターの黒い客もメンバーのひとりだったのかもしれない。

 もうアメリカはないってことだ──アメリカ国家がヴェトナムで戦っている間に、国家への幻想が少しずつ消えていった。同じ意味のことは、サンフランシスコからニューヨークに来る間に、何度となく耳にした。

 ヴェトナム戦争のアメリカは、60年代のアメリカであった。そこではいろんなことがあった。

 *ジョンとロバートのケネディ兄弟がころされた。
 *マリリン・モンローが死んだ。
 *ボブ・ディランがアメリカの音楽を変えた。彼の曲の1節をとった「ウェザーマン」を名乗る新左翼グループが生まれた。
 *公民権運動のおかげで、人口の10パーセントを占める黒人に「公民権」がないという事実が明るみに出た。
 *インディアン解放運動のおかげで、北米大陸の土地には、白人よりもネイティヴ・アメリカンに「先住権」があることが知られた。
 *チャーリー・マンソンが率いる一味が、ビヴァリー・ヒルズの高級住宅地に侵入し、女優のシャーロン・テイトらを殺害した事件が、ドラッグ文化への一般の関心を刺激するきっかけになった。
 *経口避妊薬が市販された。
 *ロックンロールの英雄、エルヴィス・プレスリーが甦った。
 *ケネディ、ジョンソン、ニクソン。大統領がこれほど時代を映したことも少ない。

 もはやアメリカの独走はない。先頭集団に吸収されようとしている。

 4年前に1960年代が終わっている。それまでに決着がついていい状況のあれこれが、まだ居残りつづけている。腹立たしく思う者も、苛立ちを募らせる者も、ただ冷笑するだけの者も、いるにちがいない。早く決着をつけて、進もうぜと苛立っても、現実は遅々としたまま醜態をさらしている。

 4年遅かったのさ──60年代は、法や倫理や生活の様式、生活観、あるいは人間関係について、たくさんの準備をしていった。それらの準備作業が、ようやく現実に実を結ぼうとしているのであろうか。4年のブランクを乗り越えて。それとも新しい時代に呑みこまれようとしているのか。

 これから書こうとしているのは、1972年から73年にかけて、ぼく自身がアメリカ人数十人と話しあい、短い間生活をともにしながら、幸せな生き方について考え続けた結果である。彼らの多くは、自分の生活を変えるためになにかをはじめねばと思い、あるいは実際にはじめている。ぼくもまた同じ思いで日本からやってきた。そして、なによりもまず自分のために、このレポートを書いた。

子ども解放■

 ニューヨークでキャロルに会った。
 その数日前、『ヴィレッジ・ヴォイス』紙で、最終ページの告知板what' onで、子ども解放運動をいかに組織すべきかがテーマのディスカッションがあるのを知っていたおかげである。その日ぼくは、会場の「フリースペース・オールタニト大学」を訪ねた。子ども解放Children's Liberationという言い方がひどく魅力的に感じられたのが、行ってみる気になった理由と言っていいであろう。

 年齢は残酷である。年齢相応とか、あるいは「年がいもなく」と言われる。人間は長く子どもであることを許されず、子どものほうははやく大人になることを強要される。これは理不尽ではないか。成長するのをやめたくない。変化と関わりのない大人になどなりたくない。そのためには、大人の支配から脱け出さねばならない。ぼくは、生物年齢に関わらず子どもでありつづけたい願いをこめて、そう考えつづけている。

 マンハッタンのロウア・イースト地区は、陽が落ちると人通りがぱったり途絶える。街灯も少ないので、走り過ぎるクルマの明かりで、やっと通りの名前を確認する。

 すでに閉店した食堂のなかをガラス越しに覗く。天井にひとつだけ常夜灯が灯り、その下にぼんやり、コカコーラのサインが見える。床に転がったストローや紙ナプキンは、冷たいコンクリートに張りついているみたいに動かない。

 黒人がふたり、真っ暗な軒下で、ウィスキーの小瓶を茶色の紙袋に包んだまま飲み合い、ぼそぼそと話し込んでいる。その隣の入り口を入り、ゲイ解放、レズビアン解放、ベトナム撤兵、「狂気とは何か」などなどのビラが張ってある壁に眼を遊ばせながら、いやにへこむ木造りの階段を3階まで上がっていった。

 ディスカッションのリーダー、デイヴィッドがどの男か、わからない。「デイヴィッド」と名を呼んだ。奥で、白いトックリセーターにメタルフレームの男が手を振り、こっちへ来いと合図をしている。彼から渡された、両面に印刷したA4ペラ1枚がカタログ(入学案内)であるらしい。

 『ヴィレッジ・ヴォイス』紙を見てやってきたのは、ぼくの他にはふたりだけであった。ふたりの子持ちのプェルトリカンと、寝袋に腰を下ろす白人の若者。若者は、ぼくが日本人だと知ると、「日本の企業はすでに成長の限界にあり、軍需産業に転換しないと生き延びられないので、しきりに政府にせっついているという話だけど、ほんとうにそうか」と尋ねてきた。そんなこと知らない。そう答えた。初対面のアメリカ人が、かならずと言っていいくらい「日本の経済進出」を話題にするのには、うんざりする。

 生のココナツの実がころがっているので、それをかじる。意気が上がらない。子どものセックスの話題が出る。そんなものは子どもに任せておけばいい、ということで、簡単に落着してしまう。

 デイヴィッドが立ち上がり、ぼくたち新入り3人を奥の部屋に連れていく。この前のディスカッションがちょうど終わったところで、卓球台をふたつ並べたようなデスクの周りに、折畳み椅子が20も散らばっている。ここにはヒーターがない。すでに12月半ばである。厳寒のニューヨークでは、ロックフェラーセンターの大クリスマスツリーに灯が入っている。オーヴァコートを着込んだままで椅子に腰を下ろす。

 裸電球が吊り下がって、「大学」の教室は、他にない。あらためてカタログを読むと、こんなことが書いてある。

 「フリースペース・オールタニト大学は、すべての人を快く迎え入れ、だれをも拒まない、オープンな共同体である。すべての講座とイベントは無料だが、存続できるのは、あなたの能力に応じた貢献によってである。ただし、彼または彼女は、お金がないことを理由に参加を拒まれることはない」

 講座の内容紹介を読んでみる。

 □月曜(午後3時-8時)裁縫=この講座の目的は、資本主義国家AMERIKAに、これ以上のお金を入れてあげることをやめ、自分の着るものを創造的に、しかも十分につくるための方法を探求することである。
 □火曜(午後8時-10時15分)ロシア革命に於ける人民の役割=アナキストとボルシェビキの立ち位置を対照し、研究する。マフノ、クロンシュタット、農民と革命などのテーマで、ロシア革命をアナキストとして生き延びた老革命家が講義する。
 □水曜(午後9時30分-12時)対人関係のダイナミズム=「真の自己とはなにか」について話し合おう。
 □木曜(午後8時15分-10時15分)子ども解放=子どもに平等な権利を与えるためのグループづくりを援助する。子どもたちよ、立ち上がれ!
 □金曜(午後6時-8時)アメリカに於ける非暴力運動50年史。
 □日曜(午後1時)祭り=ニューヨークの殻を打ち破り、みんなで身体を動かそう。ヨガ、ダンス、水泳、ボール・ゲームその他、身体に快感を与える運動の数々。

 その日のディスカッションは、この「大学」の教科のひとつだったわけである。状況は錯綜していてわかりにくいのだが、ぼくたちのクラスの前にも、子ども解放をテーマにしたディスカッションが行われていたらしい。4年間伸ばしっぱなしという、黒々としたヒゲの男が、主のように坐り込んでいて、そう証言している。この27歳だというヒッピーには、これからなにがはじまるのか、自分がどういうところにいるのかも、はっきりとは分かっていないようなのである。

 彼はもともと、この「大学」をゲイ情報センターと勘違いして、紛れ込み、すわりつづけているらしい。子ども解放のディスカッションがはじまるのだと知ると、汚い布バッグから、ニューヨーク市立図書館の貸し出し本を取り出して、そこにはさんである白い封筒を開いた。

 「ずっと前に別れた息子から来たバースデー・カードなんだけど、彼はぼくが何者なのか分かっていないし、ぼくが父親だとも告げられていないらしい」

 封筒から抜き出したカードには、MY SON(息子よ)と印刷されているではないか。ということは、息子が選んで送ってきたのは、本来父親が息子に出すはずのカードだったということになる。

 「ぼくは彼の息子なのか?」

 ヒッピーは、底に穴のあいた布シューズの脚を組み、薄汚れた白いシャツのボタンをいじりながら、しきりに首をひねる。ゲイとして生きるために妻子を捨てたという事実は、このあとまもなくわかる。男と見ればだれでも追い回して頬にキスする癖は、出席者たちを閉口させることになる。

 彼の息子にとって、父親とはいったい、どういう存在なのか。

 このあたりからディスカッションに入っていくと、おもしろそうなのだが、このヒッピーは、この場をめちゃめちゃにすることを目指しているらしい。彼は、司会のデイヴィッドを無視して、だれかれかまわず議論をふっかけ、大声でかきまわす。おかげで、8人になっていた出席者は、3つのグループに分かれてしまった。

 ヒッピーが、ココナツの実の脂肪分がいかに有害かについて、化学方程式を駆使して延々と説明する隣には、子どもにとって自分たちの居住区がいかに有害かをまくしたてるプェルトリカンがいるというわけである。

 子ども解放はどこに行ってしまったのか。

 だれかが「子ども解放の討議に子どもがいないのは変じゃないか」とわめいた。

 そのとき、デイヴィッドが「ほら、子どもがひとり来たよ」と戸口を指さした。母親らしい女性に連れられた女の子が、毛皮のフードの付いたコートの下から、黒い瞳で大人たちを眺め回しながら入ってきた。それがキャロルであった。(この項、つづき)
(前回からつづき)
 キャロルは大人たちの間をぴょんぴょん跳ねながら、まわって歩く。机に腰かけ、話に割込み。彼女は11歳だという。そして、ドロップアウトした小学生である。

 最初に入学したのは、ごく普通の小学校であった。ある朝のこと。登校したキャロルは、どうしても60号桟橋へ行きたくなった。ハドソン川にある桟橋のひとつである。「だれか一緒に行かない?」と誘うと、ほとんど全員が応じ、どっと出かけていった。校長は激怒し、リーダーである彼女に向かって怒鳴った。「キャロル、きみは学校を爆破するつもりか」

 キャロルは、授業の開始と終了を告げるベルが気に入らない。テレビ映画でよく、刑務所の囚人たちが、ベルを合図に風呂へ入ったり、屋外運動場に出かけていくのを見ていた。だから、ベルを聞くたびに刑務所にいる気分になる。なんとかしたくてクラスメートに話すのだけれど、授業をさぼることには乗り気だった彼らのだれひとり、窮屈で退屈な授業をなんとかしようと考える者はひとりもいないようであった。

 ヒスパニックらしいキャロルの浅黒い指が、気に入らない教師や大人のことになると、しきりに机を叩く。時間割も学校そのものも大人たちがつくり、子どもには、それらを拒否する権利はまったく与えられていない。これは不当ではないか。子どもがノーを言えるようにすると、秩序が保てないし、第一子どもは経験が不足しているときめつけるけれど、これでは、黒人やヒスパニックを「劣等人種」と考える白人の論理をなぞっただけではないか。

 「私は、あまり率直に言い過ぎて、その学校からキックアウトされたのよ」

 ふたつめの学校は私立で、自由度は前より高かったけれど、本質においてはなにも変わっていないことに気づくまでに、1週間とかからなかった。先生をサーと呼ばずに、ボブやリズなどとニックネームで言うのを許されたのがせいぜいであった。

 ここもすぐにやめて、その後は学校へ行っていない。

 キャロルは、トランプをしようと言い、いつも持ち歩いているのだというカードを、ぼくの前に差し出した。

 英語でカードゲームなんかしたことがないし、日本語でもおぼつかない。しりごみするぼくを、彼女は勇気づける。「私が、いちばんやさしいゲームを教えてあげるから」。ただ数を数えるだけの「フィッシュ」をすることになったが、それでもぼくはよくおぼえられない。彼女は苛立ちをあらわにした。

 それでもぼくたちは、つまり32歳のぼくと、11歳のキャロルとは、子ども解放について、話し合った。

 彼女は断言した。子ども解放はつまり、ボーイズとガールズの問題なのよ」

 女の子は成長するにつれてペティになっていくと、キャロルは言う。ペティはpettyであろう。安っぽくて、つまらなくて、取るに足らないという意味である。ペティを、まるでポイ捨てするみたいな感じで、彼女は発音する。そうしながら、シナをつくって、「私は女よ」とふざけてみせた。

 この女の子が友だちと言えるのは、一組の双生児と離婚経験者ひとりの合わせて3人だけで、いずれも男だという。

 年齢によって人間を差別するエイジズムと、性による差別のセクシズムとが、分かちがたく結びついていることを、キャロルははっきりと見通していた。

 マンハッタンの寒い部屋で彼女は、子どもたちだけで子ども解放を話し合うことを、大人たちに提案していた。しかしぼくはキャロルに、その後会うことがなかった。(この項つづく)

(前回からつづき)
 マンハッタンは、凝集度がきわめて高い街である。巨大なケーキに紐をかけて、ぎゅっと絞り込んだのではないかと思いたくなるほどである。スカイスクレーパーは、たまらず飛び出してきたクリームということになるか。マンハッタンのごみは、ロンドンと東京のそれを合わせたよりも多いという。

 日曜日に、グリニッジ・ヴィレッジから五番街を北上する。しばらくは目立った人通りはない。しかし、はるか前方に、人のかたまりが見える。まもなく繁華な地域になり、その人のかたまりに呑み込まれる。しかし、さらに20ブロックも歩くと、また閑散として、まるで荒野に打ち捨てられたかのように錯覚する。

 五番街はセントラル・パークの東の端に沿いながら、ハーレムへと通じている。壁ひとつで、この大通りと隔てられた「公園」の、しかも壁の陰で、日暮れどきに女子大生がレイプされたというニュース報道があった。現場はティファニーの本店から10ブロックと離れていない。一方、公園のリスたちは、人通りの多い舗道にも出てきているけれど、だれひとり悪戯をしようなどとはしない。人の悪意と善意とがねじまがって介在する街、それがマンハッタンである。

 なにが善であり、なにが悪であるか。自分の物差しを点検し直し、試すことを求められている。子どもたちにとっては、それこそ大切な学習のはずである。

 エリザベス・クリーナーズ・スクールは、五番街とは、「公園」を隔てて反対の西側、アッパーウェストと呼ばれる地域にある。70年代初め、そこは悪名高い犯罪多発地域であった。ホテルの多くが福祉施設となり、宿泊者の40%を生活保護者が占めていた。そこには多数の麻薬密売者や中毒者などが含まれていた。あるホテルのガードマンは、この10年の間にナイフで5回刺され、2回も銃で撃たれたといい、腕まくりをして、凄まじい傷跡を見せるのである。

 この学校が開校した日にも、近くのアパートから家具を盗み出そうとしていた男が、管理人に刺されて、病院に運ばれるという事件があった。

 それから2年が経つ。生徒は20人あまりである。その多くは、この地域では少数派の白人中産階級の子弟。彼らのいずれも、公立や私立の学校から逃げ出したり、追い出された子どもたちである。キャロルがそうであったように、「教育制度」になじめない。

 事の発端は、子どもたちと親たちが一緒になって、自分たちの学校をつくろうと相談したことである。ところが、そのための集会が開かれると、いつも主導権を大人が握ってしまい、子どもたちはいつか沈黙し、あきてあくびをするしか手がなくなる。そのため、集会を何度開いても、いっこうに進展が見られなかった。

 やがて、主導権が子どもに移る。きっかけはある生徒のつぎのような発言である。「この学校は、私たちのためにつくられることになっている。親と子どもは共同作業をするけれど、学校は私たちのものになるはずだ。あなたたち(大人)が考える意味での私たちの学校ではなくて、私たち自身の学校。それなのに、私たちがなにか発言するたびに、あなたたちは、さえぎったり、負けじと大声を出したりするし、あなたたちのほうが重要と思うことに、そっと切り替えてしまったりする。こんな風に事を進めたいのなら、私たちは下りることにしたい」

 解放や革命と呼ばれる事態はたいてい、一瞬の、偶然と思えるような現象が発端になるが、この発言の後、集会場を支配した沈黙が全てを決してしまった。子どもたちが権力を握ったのである。

 13歳から17歳までの少年少女たちは、教室の定義を変えるところから出発した。壁で区切られた部屋ではなくて、ニューヨーク市全体が教室であるという「革命的な定義」である。そこで、アッパーウェストの大通り、コロンバス通りの空き家に「侵入」し、そこを本拠と決めた。以前に、エリザベス・クリーナーズという洗濯屋だったので、その看板が残っている。だったら、自然の成り行きで、エリザベス・クリーナーズ・スクールを校名とした。

 開校の日に発生した死傷事件からさっそく、生徒たちは学ぶことになる。この事件では刺された泥棒のほうが、刺した管理人を告訴したけれど、管理人は事情聴取を受けただけで、お咎めなしで戻ってきた。ティーンエージャーたちは、法がかならずしも平等に適用されるのではないことを実感し、社会と法律の関わりへの関心を抱くようになった。

 ところで、長く空き家になっていたために「校舎」は、トイレの水洗設備が壊れていた。そこで最初の本格的な授業は「トイレの構造」についてであった。だれかが鉛管に詳しくて、器用な人物を見つけてきて、修理の過程を説明してもらった。その後、指導を受けながら、子どもたちは肘まで汚物に浸してトイレを丹念に掃除し、トイレ掃除のヴェテランになってしまった。

 授業はすぐに核心を衝く。都市エコロジーの時間になると、スーパーマーケットで買ってきた食品の成分をリストアップする作業にとりかかり、セントラル・バークに出かけていき、野外劇の練習もはじめる。

 カリキュラムを決めるのも生徒自身である。木曜日に全員が集まって、次の週の時間割を決定する。

 しかし、タイムテーブルは絶対ではない。ある生徒が当日になって、どうしても博物館へ行きたいと思うかもしれない。別の生徒は、同じ時間に医者へ行かねばならないけれど、その授業は逃したくないと言い出すかもしれない。時間割は可能な限り変更される。それが混乱を引き起こそうとも。

 また同じ講座が、一学期あるいは一学年、ずっと続くとは限らない。生徒の希望で変更されるし、廃止になることもある。たとえば、シュールレアリズムの講座は概論からはじまったが、途中で生徒のなかから、シュールレアリストのアンドレ・ブルトンが共産党に入ったのがおもしろいという意見が出た。この講座のタイトルは「シュールレアリズムと政治」に変更されて、講義内容も当然、政治との関わりへとシフトしていった。ブルトンの芸術観が党の政策といかに衝突したかの講義があり、やがて、フロイトとヨーロッパ史の講座に発展していったのである。

エリザベス・クリーナーズ・ハイスクールの時間割の例
時間割

 週給100ドルで雇われる教師のひとり、デイヴィド・ナッソーが、授業の実際について、次のように述べている。

 「私の1時間目の授業は、朝10時にはじまることになっている。教室に最初に来るのはたいてい私。ここでは、早さも遅さもなんの価値もない。11時前にはじまることはめったにない。生徒たちは思い思いの時間に現われる。まず、コーヒーやホットチョコレートを買いに出かけ、戻ってきてしばらくおしゃべり。一応態勢ができたところで授業開始。机は三つしかない。長椅子や安楽椅子が少々。それぞれ勝手に席をとる。はじまるときは15人から20人でも、終わるときは減っている。出ていくのは自由で、奥でレコードを聴きはじめる者あり、友人同士で激論を戦わす者あり」

 リザという女生徒は、ラジオのリポーターに、「規律はありません。授業に出たくなかったり、あきてしまったら、ただ消えればいいんです。クラス全体を壊すことはありません」と話している。

 厳格な時間割も、始業と就業のベルも、教室に限られた授業も、登校下校の強制も、すべてなくなっている。生徒たちの必要性と相容れない、カタチばかりの制度はなくなっていく。

 生徒のひとりジェニーが言う。「多いか少ないかで、自由について語ることはできない。自由は量的な概念ではない。自由か自由でないか、そのどちらかでしかない」

 この学校の生徒たちは、教師を雇う権利と罷免する権利の双方を手にしている。生徒たちがインタビューして採用者を決め、基準に達しないと判断した教師を解雇する。

 この環境のなかで、だれであれ、決定権を持つ個人はいない。したがって「教壇から演説する」教師は認めない。教師もまた学ぶことを求められ、それをしない教師は教師ではない。

 週に一度、生徒自身が教師になって、自分の興味のあるテーマで授業をするシステムもあるる

 ジェーン・キンズラーは。コロンビア大学文学部を卒業し、この学校で教職に就くことを志願してきた。しかし、生徒たちは、彼女のアカデミックな側面には、はじめ興味を示さなかった。彼女は自分の受けた教育が、少年少女に教えるに値いしないのだと思った。それでも、この学校の教師になりたかった。そこで、マクラメを教えることを申し出て、「ジェーン・マクラメ」として採用された。

 マクラメ講座は、学校にある椅子をばらばらに並べて、その間に織り糸を通すという方法から、スタートした。ところが、意外なことに、男子生徒のひとりが、彼女のまるで知らない結び方を知っていることが判明する。すると生徒たちは、彼のほうに魅かれ、ジェーンから離れていった。

 だれもなにも言わないし、こだわらない。水の流れるように自然に推移する。マクラメの次には、椅子が移動されて、別の教師によって、比較宗教の講座がはじまる。

 もっとも、教師が代わったマクラメ・クラスはほどなく消滅し、その時間は、学校運営のための資金集めと、博物館めぐりに費やされるようになった。

 コロンビア大卒のジェーンはどうしたか。彼女は、中世叙事詩の講義を受け持つようになった。生徒たちはアカデミズムに興味がなかったわけではなく、共有できるテーマを見つけられないでいただけであることがわかった。

 ジェーンは話している。「おもしろいことですが、マクラメ・クラスの経験を単数の私で話すよりも、複数の私たちで話すほうが話しやすくなっていきました。役割は壊されて、生徒と教師の疎遠な関係の終わりです。それを予告するのが、一人称単数では不十分だという事実です。私から私たちへと、人格が複数化される。これがポイントです」(この項つづく)

(前回からつづき)

 エリザベス・クリーナーズ・スクールを卒業しても、卒業証書があるわけではない。高卒の資格がなくては大学にも入れないかもしれない。職業の選択ではマイナスになるであろう。しかし、生徒たちが未来に思い描く展望はとても楽観的なのである。近い将来、大学の門戸は大きく開かれるだろうし、自分たちのシステムが良いものであれば、かならず社会が受け入れると信じて疑わない。

 しかし、日本から来たぼくには、不安のほうがずっと大きい。これだけの楽天主義が広く受け入れられる日が近いとはなかなか思えない。教育制度がほとんど絶対的に支配する日本社会で、その絶対性を疑うことは容易ではない。それができたとき、どうすればいいかを考えはじめられるとわかっているとしても。

 大人が子どもに教えるというシステムなり考え方なりが放棄されないことには、なにも変わらない。つまり、大人は教えるという役割を放棄することが必要になる。

 文化人類学者のマーガレット・ミードが、その著書『文化とコミットメント』のなかで、現在から未来に向かう状況に適応していくためには、子どもたちが自ら学ぶのであり、大人は子どもから学ぶのだという意味のことを書いている。

 ミードは、新しい社会状況を、プレフィギュラティヴ(予示的)と呼んでいる。航空システムも通信衛星も「グローバル・ヴィレッジ」も、国家の枠のなかに生まれ成長してきた大人たちにはわからない。この未来を生きていく方法がわかっていない。

 第二次大戦中に生まれたぼくなども、「予示的」未来には、もはや属していないのかもしれない。しかし、そう思い込むことは、過去に縛られて動けない自分を正当化することでしかない。未来の岸辺に泳ぎつくための方法は、生きているかぎり、だれもが探し求めなくてはいけないのであろう。

 いまぼくが通っているニューヨーク大の夜間講座も、未来の岸辺に泳ぎつくための場を提供してくれているのだと思う。

 講座がはじまる10分ほど前になると、教室は満員になる。紙コップのコーヒーを離さない女性は銀行の窓口係とか。白いペンキをパンツに付けたまま現れるのは、当然塗装工。隣のニュージャージーからやってくるゲイのカップル。定年で市役所をやめた元公務員の爺さん。回が進むうちにお互いの素性がわかる。日本人はぼく以外にはいないみたいである。

 講座名は「ニュー・セクシュアリティ」という。女性の講師から、新しい性の思想や実態について講義を受けるのだが、毎回ゲスト講師が登場し、彼らと受講生とのディスカッションで盛り上がる。「いままで、いろんな男性と交際したけれど、心を結びあえる相手に出会えないのはなぜなのか」と問いかけた、黄色いセーターのおばさんが、ゲストの若いレズビアンのふたりがこもごも語る愛のありかたに、熱心に聴き入っていたりする。

 教育は生き方の探求であり、世代や年齢の差があることは、それだけ生き方の選択肢が、そこに多く存在するということではないか。

 ミードが、ヴェトナム戦争への徴兵を忌避してスエーデンに逃れている、アメリカの若者たちに会った牧師のグループのことを書いている。牧師たちは長い長いディスカッションの末に、「彼らが私たちの子どもたちであることがやっと納得できた」と報告しているという。いわゆる断絶を大人の側から越えたことになる。この話が、強く心に残っている。

 「あなたも若いですね」しばらく話した後に相手が、ものわかりのよさそうな笑みを浮かべて、そう言うときほどシャクにさわることも少ない。やがて世の中がわかって大人になりますよ、といなされているわけで、軽蔑されているのとさほど変わらない気がする。

 キャロルと話していたときだが、アメリカの小学生より、日本のほうが、学校の成績がいいらしいと、何気なく口にしたら、10メートルも離れて坐っていた母親から、「それってどういう意味?」と詰問されたことがある。その後、30分も「尋問」された。さらに、キャロルからも攻め立てられて参った。しかし、ものわかりがいいだけで好奇心の欠けている人間たちより、ずっと好感がもてる。キャロル親子のような人間が日本には少な過ぎるのである。

 ところで、大人たちが、「予示的な」社会に、何を与えられるかについて、マーガレット・ミードは、次のように書いている。

 我々はなにも知らず、なにも予言できないと知ることから、子どもたちが安全に成長できて、自分と世界を発見できる環境をつくることはできる。……我々は大人の行動を変える方法を知り、それによって、未来を閉じない教育と学習の予示的な方法を会得せねばならない。
 何を学ぶかではなくどう学ぶかを、何にコミットすべきかではなく、コミットすることの価値を、子どもたちに教えられる大人たちに向けて、新たなモデルを創造しなければならない。

 そのひとつが、イギリスにはじまり、いまアメリカに拡がるオープン・スクールというシステムである。このシステムを導入している学校をサンフランシスコ郊外のバークリーに訪ねたのは、キャロルに出会う2ヶ月前、1972年の10月半ばであった。

 その日は、サンフランシスコ周辺にほとんど半年ぶりに雨が降った。2年前に初めて、このあたりに来たときはちょうど夏で、雨など一度も降ったことがないみたいな晴天続きであった。初めて出会うこの雨には、日本にいるかのような錯覚を呼び起こされた。ジャッキー・アイリッシュは、おかまいなしにクルマを飛ばし、「バークリー方面」のサインのある入り口から、黄色いスポーツカーを乗り入れ、スピードを上げた。

 ジャッキーはジュディ・ガーランドの大ファンで、等身大の肖像写真を自分の書斎に掛けている。彼女の早口には参る。まもなく朝のラッシュに引っ掛かって、渋滞がはじまったので、クルマのスピードが落ち、その早口になんとかついていけるようになる。これから行く彼女の勤務先のウィッティア小学校のことを勝手に話し出した彼女に、あいづちを打つこともできた。

 2年前の夏に、初めてバークリーへ行ったときのことが思い出される。サンフランシスコからオークランド・ベイ・ブリッジを渡りながら、サンフランシスコ市街を振り返った。白い家並がおだやかな陽射しを反射する丘の街。その右手に、ゴールデンゲイト橋がぼんやりと浮かんでいる。やがてクルマは橋の出口に近づく。対岸も丘であった。やはり白く輝く家々が点在する。オークランドからバークリーにつづく一帯の白は、サンフランシスコのそれより、いっそう光り輝いているように思える。

 バークリーの中心、テレグラフ通りをカリフォルニア大のキャンパスへ向かうと、まもなく、車道にまではみだしたストリート・ピープルの群れにぶつかった。皮のサンダルをつくって売っている男の子は、裸足を投げ出し、マクラメ織りをする女の子のジーパンのお尻に穴があいて、小花模様のパンティがのぞいていた。人の群れに交じって歩いていると、知らぬ間に、大学の構内に入っていた。

 講堂の階段の途中で、若者たちが、自作の詩を読む片脚の詩人を遠巻きにしながら、坐っていた。裸の胸にネッカチーフだけを巻きつけているらしい女の子。車椅子の青年がはくジーンズの膝にも、ピースマークのバッジはあった。樫の木の下の日陰で、当時はまだ珍しかったアフロヘアの黒人の脚に長い髪を載せたまま眠っている、白人の少女のジーンズは、膝から下が切り落としてある。「若者文化発祥の地」とも言われたバークリーの、これが1970年であった。

 バークリーでなにか新しいことがはじまっているらしいと、ぼんやりと思いはじめたころをたどると、60年代半ばに至る。それはマリオ・サビオの名に出会ったころでもいる。彼はバークリーの学生で、大学当局が構内の広場の使用を禁じたのをきっかけとするフリー・スピーチ運動のリーダーであった。

 ヴェトナム反戦を軸とするアメリカの学生運動に火をつけたのが、このフリー・スピーチ運動である。催涙ガスのメイズを警官隊が初めて使ったのも、テレグラフ通りのデモに対してであった。隣町のオークランドにあった徴兵センターは、学生たちにとって最大の攻撃目標で、周辺の商店は、店の前に堅固な防壁を築いて自衛したのである。

 1964年登場した新聞『バークリー・バーブ』は、やがてアメリカ中の大学町にも姿を見せる。若者たちが、バークリーで何が起こっているかをしきりに知りたがったからである。まもなく、各地でアンダーグラウンド・ペーパーが登場する。このブームは「バーブ」から発していると言える。

 黒人革命グループ、ブラック・パンサー党をオークランドで組織したヒューイ・ニュートンは、なかなか手に入らない黒人ミュージシャンのレコードを買うために、しばしばテレグラフ通りに来ていた。彼が『毛沢東語録』を発見したのも、この通りの書店でのことであり、メハシのきく革命家らしく、一括購入すると、オークランドで売り捌き、組織の資金づくりをしたこともある。

 文化、思想、政治、風俗、全てはバークリーにはじまると、考えられるようになった。70年のぼくも、自分の眼でそれを確認した。しかし、ジャッキーのクルマから見る、2年後のバークリーは、静かであった。雨が降っているせいもあるにはちがいない。目立つことと言えば、専用レーンを走る自転車の数の多さぐらいであろうか。カラフルで独創的な風俗は、見られない。書店の店頭のスターは、アンダーグラウンド紙ではもはやなく、自然とエコロジーが取って代わっている。

 「バークリーの町には、なにも目を引くものはないわよ」

 ジャッキーは素っ気ない。通りから消えた人々はどこへ行き、なにをしているのか。その答えを探す旅がすでにはじまっていることに、ぼくはまもなく気づくことになる。(この項つづく)


〈改稿について〉ぼくは、1972年の夏から翌年の春まで、8ヶ月をアメリカで過ごした。そのうち半年はニューヨークに滞在し、残りの2ヶ月でアメリカ各地を旅して歩いた。ニューヨークで本を1冊書いた。『なんとかしなくちゃ』のタイトルで出版された。長く、その文章が気になっていた。今回、とうとう決心して、改稿することにした。ただし、文章に手を入れるのであり、中身はできるかぎり従来通りに残すことを目指す。
2007.10.15.


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