2010.2.3.
夜陰に乗じて。#5
正月は、下駄とともにやってきた。年が明けると、親が新しいのをおろしてくれる。これが、半世紀前の我が家、没落しかけた下駄屋「富士村屋」の慣わしになっていた。
ここは墨田区寺島町7丁目。現在の東向島5丁目、いわゆる玉の井。戦前、赤線相手に盛業した我が家は、戦後傾き、知己相手に、細々と商いを続けていた。それも、売春防止法の施行で無に帰そうとしていた。
親抜きで新年を享受できたのは中学生になってから。すでに少数派だった下駄をいやいや履いて、浅草ヘひとりで出かける。
昭和30年代、自分の街から、この東京最大の盛り場ヘ行くには、電車、路面電車、徒歩の、3つの方法があった。その他に、自転車が使えるはずだが、当時の我が家には、これはなかったと思う。
なかで、ぼくが愛したのは徒歩行。閑散とした街を突っ切り,白鬚橋上の強風にもてあそばれ、橋場、今戸を過ぎて、花川戸から突然に、浅草の喧噪のなかに放り込まれる。これがぼくの正月、東京の正月に他ならなかった。
初参りの混雑の只中で、苦労して、今年最初の五円玉の賽銭を投げる。その途端に身体から力が抜けて軽くなる。正月の仕事をひとつ終えた気がする。
家では、ぼくを溺愛する祖母が寝たり起きたりの状態。だから祖母の分もお参りした。「浅草に行ったら、なにがなんでも、まず浅草寺に参りなさい。それが終わったら、なにをしてもいいから」と、これが祖母の言いつけ。これまでそのとおりにしてきたし、これからもしつづけるつもり。
もっとも、当時の中高生にできたのは、映画を見ることぐらい。それでも、当時は日本映画最後の隆盛期で、最高の映画環境が、浅草六区には用意されていた。ここの映画館で、通路のステップに腰を下ろして、『羅生門』を見たのが、ぼくの自慢。これ以上ないくらいの贅沢ではないか。
映画が終わると、すっかりお腹が空いている。ぼくは、最高の食事ができる店を知っている。脇道を入って行き着く、目立たない食堂。メニューはホットドック(ドッグではない。実際には、丸パンに卵やソーセージが挟んであった)とスープのみ。
当時は進駐軍の兵士ならともかく、日本人がふだんに口にするものではない。ぼくはきっとアメリカ映画を見て知ったにちがいない。
こうして贅沢を尽くしたつもりになり、何食わぬ顔で、帰ってくる。だれにもなにも言わない。すばらしき、独り新年のはじまり。
──あのときから半世紀あまりが過ぎた。かつての少年は、70歳を間近にしている。そこで、ということもないのだが、数年前、東京の「正月の正しい終わり方」を「発見」した気がする。
ぼくの故郷、東向島にある百花園を、友人と尋ね、つくしが地中から顔を出すのを見た。その瞬間、野草の生命を感じた。
この植物園は野草の宝庫として知られている。それだけに、生きる力の偉大さが迫るのかもしれない。見事なサルスペリには、あの昔のツルツル竹張りを思い出させられたけれど。
新年は終わった。さあ、今年も生きようか、という思いが湧いてきたのを忘れない。

