暮れの28日、新橋のトニーズバーTony’s Barが店を閉じた。オーナーの松下ベッティーさん(79)が、体調を崩したため。
このバーは、もともと店名の通り「トニーの酒場」。ベッティーさんの弟、松下安東仁 (アントニー→トニー)さんが、ほぼ半世紀前に、人形町にオープンしたのが最初。その後、新橋に移り、21世紀に至る。
数年前、トニーさんが69歳で亡くなり、姉のベッティーさんが、そのままの形で引き継いだ.
トニーさんは、東京オリンピック前の早い時期からモルト・ウィスキーに着目し、集めに集めて、日本ではほとんど未知の味わいを提供しはじめた。全長10メートル、大半がスタンディングのカウンターと向かい合うバックバーには、いちばん多いときで、2400本のモルトを揃えた。
トニーさんは、モルトの飲み方について、譲らない信念を持っていた。それは、いい酒はそのまま飲むのが一番というもの。だから、モルトのソーダ割りなどという注文には、怒りを露にした。
トニーさんはまた、バーでのマナーにもきびしかった。一杯だけで帰るなというのもそれ。一杯でやめるのは、おいしくないと言うのと同じだから。どうしても二杯が無理なら、あらかじめその旨伝えておくのがルールだと。
トニーさんの容赦のない接客に、慣れない新来の客は怖じ気づく。出入り口に近い真ん中あたりに立って、中途半端に飲むことになってしまう。トニーさんとにこやかに語り合いながら、奥の「常連席」を占拠する先輩たちを羨ましく思いつつ。
このイヤな感じを救ったのが、ベッティーさん。この二歳年上の姉は、以前もトニーさんのバーを手伝っていたが、結婚し、家庭に入った。やがて子育てが終わり、現場に戻ってきたわけ。
ベッティーさんの、このバーでの立ち位置は、カウンターの半分よりやや後ろ。そこは、モルトにもバーにもまだまだ慣れない、比較的若い客たちがたむろする一角のど真ん中。
明るい笑顔、無類の話し好き、空になったグラスの一嗅ぎでモルトの良否を判別する感覚。
店の奥で、忠臣たちにかしずかれ、帝王のように君臨するトニーさんと、慈母のように優しく客たちに接してくれるベッティーさんと。このふたりは、トニーズ・バーという 宇宙を、力を合わせてクルクル回しつづけていたのかもしれない。
ベッティーさんを頭に、トニーさん、それにもうひとり、やはり新橋でバーをしていた松下ジョニーさん(故人)と。3人姉弟とも、父がイギリス人、母が日本人の日英ハーフ。
3人の人生の日々は、十代の頃から、バーとともにあったのではないか。慣れ親しんだバーとの別れは、身を切られるほうがまだましか。
なお、トニーさんのバーは、全面的に解体されて、若いバーテンダーの店に再生する予定という。
正月は、下駄とともにやってきた.年が明けると、親が新しいのをおろしてくれる。これが、半世紀前の我が家、没落しかけた下駄屋「富士村屋」の慣わしになっていた。
ここは墨田区寺島町7丁目。現在の東向島5丁目、いわゆる玉の井。戦前、赤線相手に盛業した我が家は、戦後傾き、知己相手に、細々と商いを続けていた。それも、売春防止法の施行で無に帰そうとしていた。
親抜きで新年を享受できたのは中学生になってから。すでに少数派だった下駄をいやいや履いて、浅草ヘひとりで出かける。
昭和30年代、自分の街から、この東京最大の盛り場ヘ行くには、電車、路面電車、徒歩の、3つの方法があった。その他に、自転車が使えるはずだが、当時の我が家には、これはなかったと思う。
なかで、ぼくが愛したのは徒歩行。閑散とした街を突っ切り,白鬚橋上の強風にもてあそばれ、橋場、今戸を過ぎて、花川戸から突然に、浅草の喧噪のなかに放り込まれる。これがぼくの正月、東京の正月に他ならなかった。
初参りの混雑の只中で、苦労して、今年最初の五円玉の賽銭を投げる。その途端に身体から力が抜けて軽くなる。正月の仕事をひとつ終えた気がする。
家では、ぼくを溺愛する祖母が寝たり起きたりの状態。だから祖母の分もお参りした。「浅草に行ったら、なにがなんでも、まず浅草寺に参りなさい。それが終わったら、なにをしてもいいから」と、これが祖母の言いつけ。これまでそのとおりにしてきたし、これからもしつづけるつもり。
もっとも、当時の中高生にできたのは、映画を見ることぐらい。それでも、当時は日本映画最後の隆盛期で、最高の映画環境が、浅草六区には用意されていた。ここの映画館で、通路のステップに腰を下ろして、『羅生門』を見たのが、ぼくの自慢。これ以上ないくらいの贅沢ではないか。
映画が終わると、すっかりお腹が空いている。ぼくは、最高の食事ができる店を知っている。脇道を入って行き着く、目立たない食堂。メニューはホットドック(ドッグではない。実際には、丸パンに卵やソーセージが挟んであった)とスープのみ。
当時は進駐軍の兵士ならともかく、日本人がふだんに口にするものではない。ぼくはきっとアメリカ映画を見て知ったにちがいない。
こうして贅沢を尽くしたつもりになり、何食わぬ顔で、帰ってくる。だれにもなにも言わない。すばらしき、独り新年のはじまり。
──あのときから半世紀あまりが過ぎた。かつての少年は、70歳を間近にしている。そこで、ということもないのだが、数年前、東京の「正月の正しい終わり方」を「発見」した気がする。
ぼくの故郷、東向島にある百花園を、友人と尋ね、つくしが地中から顔を出すのを見た。その瞬間、野草の生命を感じた。
この植物園は野草の宝庫として知られている。それだけに、生きる力の偉大さが迫るのかもしれない。見事なサルスペリには、あの昔のツルツル竹張りを思い出させられたけれど。
新年は終わった。さあ、今年も生きようか、という思いが湧いてきたのを忘れない。
東京・大塚限定情報マガジン『南大塚萬重宝』2010年2月号
(版元・東京ペンギン堂本舗)
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スカイツリーがここまで高くなっているとは思わなかった。空蝉橋から上野方向を見ると、真正面にスカイツリーが立っている。それはまるで山手線の線路の延長上にあるかのような位置関係だ。現状でまだ半分以下のサイズなので、完成後は思いほか身近な風景になりそうだ。大塚駅のホームからも、辛うじて工事中の先端を垣間見ることが出来る。……続きを読む »
最近の各種ブームの例に洩れず、やはりネットから火がついて、銅像ブームと言う。銅像を探し、見に行く。それだけ。だけど、ワクワク。銅製の像と言っても、仏像の類いではない。近代のテイストと技術。製作者は、高村光雲をはじめとして、近代日本が誇るらしいトップアーティストたち。
というわけで出かけたのは、銅像のメッカ、皇居前広場と、その周辺。鑑賞した銅像は8体。
巡った順にまず、有楽町にある、江戸城を初めて造った太田ナニガシの像。つづいては、皇居前に入り、南北朝の武将、楠木まさしげ。さらに、気象庁前のお堀に面して立つ、平安京遷都の立役者、ワケノ清麻呂。さらに皇族出身の軍人として活躍したとかいうキタシラカワノミヤ能久親王像が旧近衛連隊本部の林のなか。さらにさらに、九段坂に並ぶ軍神オオヤマ巌と明治維新の旗ふり、品川ヤジロー。靖国神社の参道に、堂々の大村マスジローは、帝国陸軍創設の立役者。と、最後は、日銀本店近くに戻り、日本経済界のドン、澁澤エーイチ。これで8体。所要時間、急ぎ足2時間半。
まず結論。都心の銅像巡りは面白かった。
銅像の真骨頂は、その高さにある。駿馬にまたがり、躍るように駆けるまさしげ像で、高さ3.96メートルという。地上の鑑賞者は当然、仰ぎ見なければならない。高い空ヘ視線が飛ぶ.晴れていればなおのこと。空と銅像と自分自身が一体になる瞬間。それが、銅像巡りの至福のとき。
街は視野の外ヘ飛んでいき、傍らの通りを通過していくクルマの走行音が遠ざかる。その静寂のぴか一として、近衛連隊の北白川宮像に指を屈しないいわけにはいかない。深い森を連想させる木々の間から躍り出ようとする軍馬との出会いは、一瞬、ベルリンの深い森を思出させるほど。
銅像たちは意気軒昂。
狩り装束に身を包んで立つ大田ナニガシなど、ビルのなかに取り込まれる不利にめげていない。皇居、かつての江戸城ヘ顔を向け、立ち続ける。いつか戻るぞ、と宣言するかのように。
あるいは、靖国にそびえ立つ大村。じつは、その顔は、上野の山をそぞろ歩く西郷に向けられているともいう.ふたりは、同志として視線を交わしあっているのであろうか。
人を街を睥睨し、過ぎていく時間に超然と構える。そんな銅像たちは愉快のカタマリ。
『高野金次郎商店』平成22年2月号
(版元・東京ペンギン堂本舗)
近頃銀の輔が行った所
国民の皆様、私、銀の輔が日本国大統領になった暁には、税金無し、医療費教育費全額負担、家賃無料、あらゆる交通機関も全てタダに致します。お菓子もタダにしましょう、年に一度は、全国民を温泉旅行にご招待しましょう。夢と希望に満ち溢れた、バラ色の日本にすることを、お約束致します!……続きを読む »
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ひとこと